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檻の中の賢者様


牢の中で、ニタニルは泥のように眠っていた。

ナツメは眠っているニタニルを見つめ、小さく息をつく。

あんなことがあった翌日だ、無理もない。


枕元へ、食事の入った紙バケットを三つ。

それから、魔術の基本について書かれたメモを添えて、ナツメはそっと退室した。


もし、ニタニルがそのメモを理解して暗記しなければ――

この閉ざされた生活が、ただ長引くだけだ。



◇◇◇



「ナツメ先生! なんなんですか、これ!」


教室に飛び込んできたノノアの声は、ひどく切羽詰まっていた。


「毎朝、窓から投げ捨てているんです。それなのに必ず朝には戻ってきている。……それに、今朝。ついに声を出すようになったんです!」


ノノアは袖の下からあの黒い石を取り出し、ナツメに突き出した。


「……今は、声を出してないみたいだね」


ナツメはノノアと目を合わせることもなく、魔石を人差し指で軽く押さえた。

石の表面は黒くゴツゴツとしていて、光の加減では、人の顔に見えなくもない。


「ノノアちゃんだけに、何か伝えたいことがあるみたいだね」

「それは困ります!」



「うーん……悪い物ではないと思うから、もう少しだけ付き合ってあげてよ」


ナツメは、困惑するノノアの返事を待たなかった。


「大丈夫。もう慣れたでしょ? できるだけ、肌身離さずにね」


そう言って、ナツメは吸い込まれるような手つきで、魔石をノノアの袖の中へと返した。



抗う隙がなく、ノノアは突然変異の魔石――不気味な同居人との生活が続くことになった。



◇◇◇



ナツメのお使いで、セノとテノルドはニタニルの様子を見に行った。

もちろん、ノノアも誘ったが、彼女は全力で首を振った。



魔術教室三階、個室群の最奥。

そこがニタニルの居場所だった。

ニタニルは二人の姿を見た瞬間、その瞳に卑屈なほどの光が宿った。

それは飢えた獣のようでもあった。


部屋の隅に置かれた魔術のメモは、置かれた時のままで放置されている。

賢者と崇められたこの男は、その生涯において、魔法も魔術も自ら使ったことがない。


「ナツメは、それを勉強するまで、ここから絶対に出さないだろうね」


セノが、放置されたメモを指差した。


「なぜ、この私が意味のない文字列を、脳に刻まねばならんのだ。理解に苦しむよ。魔術など、下々の者にさせれば済む話ではないかね」


ニタニルは、不機嫌そうに声を出す。


テノルドが、牢の天井を仰ぎ見る。


「ニタニルに魔術を覚えさせて、ナツメ先生は何をさせたいんだろう……」


「呼び捨てなんて無礼な!敬称をつけたまえ!」


ニタニルがテノルドの顔にピンとした指をさす。


「あれだけのことをやったんだもん」


セノが、ニタニルを見ずにぼそっと呟いた。


「何もしとらんぞ!」


ニタニルがセノの顔に鋭く指先を突きつける。


「術者の命と引き換えに発動する超魔術。それを使って、国を再建させるんじゃないかな」


セノが、相変わらずニタニルを見ずにぼそっと呟いた。


「そんなことしたら、私の命だけでは足らんぞ!」


ニタニルが、弾かれたようにテノルドとセノの顔に両手で指をさす。




「まだ何をさせるか考えていないよ」


不意に、背後から声がした。

いつの間にかそこに立っていたナツメに、ニタニルがここぞとばかりに詰め寄る。


「いいですか、ナツメ君。私がここで時間を浪費するほど、国家の知的損失、ひいては予算の無駄遣いになるのだよ。このような薄暗い部屋で魔術を強制的に学習させる行為は文化的な虐待だ。そうは思わんかね?」


「ずっと考えているんですが、いい案が浮かばなくて……」


ナツメは、その剣幕を無かったかように受け流した。

そして、小首を傾げて問い返す。


「賢者様なら、当然、何か良い案がありますよね?」


「それを私に聞くかね? 答えが欲しいなら、まずは私をここから解放することだ。外の空気を吸い、自由を享受すれば、自ずと叡智が降ってくるだろう」


「外に出るのは責任を取ってもらってからですね」


ナツメの冷たい声。


「賢者としての責任を取るためにも一刻も早く外に出ねばならんと言っているんだ!」

「……」


ナツメは視線を逸らした。

それだけで、対話の拒絶には十分だった。


「……昨日の、あの有様では足りんとでも言うのかね、ナツメ君。まだ私から、乾いた雑巾を絞るように知恵を搾り取ろうというのか。君のその執着は、いささか美しさに欠けるよ」


ナツメは何も答えない。

ただ、空っぽの目でニタニルを見つめていた。


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