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祖父の海⑦

夜明け前、沖の海は黒々と静まり返っていた。井手竜太郎は漁船の舳先に立ち、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。夜空にはまだ星が瞬いていたが、水平線の向こうにはぼんやりとした雲の帯が広がっている。

「竜太郎、今日は長く網を入れられそうか?」

操舵室から源蔵が声をかけた。

井手は波の様子をじっと見つめた。風は微かに東から吹いているが、妙な湿り気があった。彼は海に身を任せるように目を閉じ、耳を澄ませた。波の音がわずかに不規則で、時折、深く響くようなうねりが混じる。

「……じいちゃん、昼前には風が変わる。あの雲、東風で流れているけど、たぶん南に巻く」

「……お前もだいぶ海がわかるようになったな」

源蔵は満足そうに頷いたが、その目にはまだ慎重さが残っていた。

それでも若い衆は、「大丈夫っすよ、竜太郎さんの勘、これまで外したことねぇし」と笑った。

「……網は早めに上げる。油断すんなよ」


「……ん……」

源蔵は微かに息をつきながら目を覚ました。病室の天井が目に入る。静かな空気の中、潮の香りはもう感じられない。

(……夢か)

まぶたを閉じる。しばらく、海の音が耳に残っていた。まるで昨日のことのように、かつての井手の姿が蘇る。

(あいつは、あのときから天気と向き合い続けてきたとじゃな)

病室の窓からは、長崎の海が小さく見えた。冬の冷たい風に、光がきらきらと反射している。

ベッドに横になる源蔵は、腕を枕代わりにして、そんな景色をぼんやりと眺めていた。枕元には漁協の仲間が差し入れたミカンと、まだ封も切っていない釣り雑誌が置かれている。

「じいちゃん」

低い声がして、源蔵がそちらに目をやると、井手が立っていた。前に東京から戻ったときより、少しだけ顔つきが変わったように見える。

「おう」

源蔵が軽く手を上げると、井出は病室の椅子に腰を下ろす。

「どうだ、具合は」

「なんてことねえ。医者が大げさに言っとうだけたい。数日で退院だ」

「……何が老いぼれてねえだ」

井手が呆れたように笑う。

「せからしか、若い衆も一緒だったんだ。ちょっと網の具合を見に行っただけだ」

「ったく、人を心配させといて」

「なんね、泣き言言わなくなったと思ったら、今度は減らず口か」

「仕方ねえだろ。あんたの孫ばい」

「けっ」

二人とも、照れくさそうにそっぽを向く。

 少しの沈黙。

「……おい、くそじじい」

「きさん、敬愛すべきお祖父様に向かって何て口ききよるとや。なんだ、その……テンプラ厳守やぞ」

「コンプラだ、ばかじじい……ありがとう」

源蔵の眉がぴくりと動く。

「は?」

「生きていてくれて、ありがとう。俺、じいちゃんの海、守れた」

 源蔵は目を細めたが、すぐにそっぽを向く。

「けっ」

井手は立ち上がり、病室の扉に手をかける。

「じゃあな。また明日、顔出すけん」

 そう言いかけた時だった。

「……ありがとうよ」

源蔵が、小さく呟いた。

「ん?」

井手が振り返る。

「海と俺、守れたな」

 井手は少し目を見開き、そしてゆっくり頷いた。

「おう。でも、これからだ」

「当たり前だろ。ジジイ一人助けたくらいでいい気になるんじゃねえ」

「そのうち、もう一回海に放り込むけん」

「何だと、このやろう」

 笑いながら井手が扉を勢いよく開け、外に出ていく。

扉が閉まる音が響くと、源蔵は天井を仰ぎ、小さく息をついた。

「けっ……誠一、竜太郎はもう大丈夫だ」

窓の外には、青く広がる空。源蔵は細めた目でそれをしばらく眺めると、ふっと口元に笑みを浮かべた。

 それは、息子・誠一の姿を思い出すときと同じ、少しだけ優しい表情だった。


井手はその後、佐世保の海上保安庁を訪ねて、今回のお礼と報告をした。

「今回は本当にありがとうございました」

深く頭を下げる井手に、担当の職員は照れたように笑いながら手を振った。

「何言っているんですか。お礼を言うのはこっちですよ」

「そうですよ。同じ漁協の方から連絡をいただいたとき、無線は通じないし、情報も不足していて……どうしようかと困っていたんです。そこに井手さんが連絡をくれて、本当に助かりました」

「報告書、こちらからもアトモス気象研究所宛に送らせていただきます」

「恐れ入ります。よろしくお願いします」

礼を述べて庁舎を後にすると、その足で井手は漁協へと向かった。入口をくぐると、ちょうど坂本と森田が出てきたところだった。

「竜太郎さん!」

「来てくれたんですね!」

二人は驚きながらも笑顔で駆け寄ってくる。

「うちのじいさんが……本当にすみません」

そう言って深く頭を下げる井手に、二人もすぐさま頭を下げ返した。

「そんな……顔を上げてください」

「俺たち、源蔵さんあっての存在です。漁のことで、どれだけ世話になったか分かりません」

「そうそう。今回はたまたまです。『今日は出るな』って言われて助かったこと、何度もありますよ」

「それに、源蔵さん、ものすごく喜んでましたよ。『竜太郎が、こんなに立派になった』って」

森田がそう言うと、坂本も続けた。

「俺たちも、同じ気持ちです。本当に助かりました。ありがとうございます」

改めて二人が頭を下げる。

「おいおい、頭の下げっこか」

奥から年配の漁師が顔を出し、場が一気に和やかな空気に包まれた。

「……今度戻ってきたら、網の打ち方、また教えてくださいよ」

「源蔵さんと一緒に。あの人がいないと、やっぱ締まらん」

井手は苦笑しながらも、目尻を緩めた。

「……ああ。きっとまた戻ってきますよ」

海のにおいが、ふと風に乗って鼻をかすめた。


漁協を出た。

潮風が頬を撫でる。井手は、防波堤に立ち、静かに海を見つめていた。波の音だけが耳に響く。水平線の向こうに、彼がこれまで向き合ってきた海が広がっていた。

この海と共に生き、この海に教わってきた。祖父も、仲間たちも、そして亡き父も……この海に命を懸けてきた。

だからこそ、守りたいと思った。

「……じいちゃん、俺は間違ってなかったよな」

ぽつりと呟く。

幼い頃から、海は彼のすべてだった。祖父の背中を見て育ち、漁の手伝いをしながら学んだのは、天気の急変がどれほど恐ろしいかということだった。

それでも、漁師たちは出る。荒れる海の向こうに、生活があるから。

「でもな……俺は、海に出るんじゃなくて、海を守る仕事を選んだ」

祖父は助かった。奇跡的に。だが、もし自分の予測が少しでも遅れていたら……そう考えると、背筋が冷たくなった。

それでも、彼はこの仕事を続ける。

「もっと精度を上げる。もっと早く、もっと的確に」

気象を知ることで、救える命がある。守れる暮らしがある。

だから、自分は東京に戻る。アトモス気象研究所の研究員として。

ゆっくりと空が白み始める。暗い海に、うっすらと日が差し込んだ。

井手は一歩、前に出た。

「俺が、海を守る」

強く呟くと、波がひときわ高く打ち寄せた。まるでその言葉を受け止めるかのように。


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