祖父の海⑧
数日後。東京・アトモス気象研究所。
入口の自動ドアが開くと、井手が姿を見せた。
いつもの作業着姿だが、どこか以前より精悍な雰囲気がある。
「井手君!」
デスクから顔を上げた玲奈が、柔らかな笑顔を向ける。
「お帰りなさい。お手柄だったわね」
「ありがとうございます」
井手が少し照れくさそうに頭を掻いた。
「お祖父さん、ご無事で何よりです」
優花が、ホッとした表情で声をかける。
「ご心配かけました」
井手は一礼するが、すぐに引き締まった表情になる。周囲もその変化に気づいた。
「皆さん、今回よく分かりました」
「何が?」玲奈が首をかしげる。
井手は拳を軽く握りしめながら答える。
「自分、今まで『頭悪いからダメだ』って、どこかで諦めていました。でも……じいちゃん助けた時、分かったんです。必死さが足りなかったんだって」
静かな室内に、井手の言葉が染みわたる。
「遭難した家族も、関係者も、みんな自分の大切な人を守るために、血眼になって天気を見つめる。でも、天気は、気象予報士じゃないと予測できない部分があるんです。だから」
井手は一度息をつき、周囲を見渡す。
「だから、自分たちは、予測できない人たちのためにも、全力で予測しなくちゃいけないんです」
「井手君……」
志保が、驚きと感心の入り混じった表情でつぶやく。
「成長しましたね、井手さん」
年下相手にも常に丁寧な松岡亮太が、目を細めて力強くうなずく。
「じゃあ、さっそく頼もうかな」
玲奈がモニターを指差す。
「この海上風速データ、気圧配置の変化と照らし合わせて、漁業船団向けに精度の高い予測を出したいの。冬型が緩むタイミングを正確に出せれば、出港時期が左右される」
画面には、時系列ごとに並ぶ数値データと、緯度経度に沿った風速図が映し出されている。
等圧線が細かく重なり、風向き矢印がいくつも渦巻くように配置されている。
漁師時代にも見たことがあったが、そのときはそこまで細かい分析はしていなかった。
「や、やります!」
井手は力強く返事をして、自分のデスクに向かった。
座るとすぐに、気象庁のデータベースにアクセス。
数値予報モデルの「MSM」を呼び出し、三時間おきの風速データを取り込む。その数値を、独自の解析ツールに流し込んでいく。
「えっと……相対湿度、風速十メートル以上……寒冷前線通過予想時刻……」
ブツブツとつぶやきながら、慣れない手つきでキーボードを叩く。
数分後、グラフが画面に浮かび上がった。時間経過ごとに風速が折れ線で示され、特定の時間帯に急激に落ち着く予兆が現れている。
それを見て、井手の表情がパッと明るくなる。
「おお……!」
思わず声が漏れる。
すぐに玲奈の元へ駆け寄った。
「藤堂さん、ここです!昼過ぎに風速が一気に下がる可能性があります。たぶん、このタイミングなら漁船も出港しやすいかと思います」
玲奈が画面を覗き込み、頷く。
「いいじゃない、精度も悪くないわね」
「本当ですか!?」
「うん。よくやったわね」
井手の表情がパッと輝く。
「これからが楽しみね」
玲奈がぽつりとつぶやくと、美咲、優花、志保、松岡――皆が笑顔で頷いた。
井手は再びパソコンに向き直る。
その背中は、以前より一回り大きく見えた。




