祖父の海⑤
冷たい波が容赦なく源蔵の体を打った。荒れ狂う海の中、転覆寸前の源蔵丸にしがみつきながら、源蔵は唇を震わせる。
指先の感覚はとうに失われ、関節が鉛のように重い。心臓の鼓動が妙にゆっくりになってきているのを感じた。
「……こりゃあ、いかん……」
呟く声もかすれる。
若い衆の本田と森田は、かろうじて船の側面に捕まりながら、互いの体を支え合っていた。二人ともまだ意識ははっきりしている。だが、源蔵は違う。歳を取った体は、冷たい海に急速に蝕まれていた。
(竜太郎……)
頭に浮かぶのは、東京にいる孫の顔。
あの反抗ばかりしていた竜太郎が、漁を捨てて気象を学び、今はアトモス気象研究所で働いている。
(……こんなとこで死んだら、笑われるばい)
竜太郎は、まだ一人前じゃなか。
漁師としての腕は確かだったが、気象の世界に飛び込んで、どれほど通用しているのか。
(あいつが本当に立派になったって思えるまでは、死んでなるもんか)
「源蔵さん!しっかりして下さい!」
森田が叫ぶ。
「ば……馬鹿たれ……わしはまだ死なん……」
ぎゅっと拳を握る。指はかじかんで動かない。だが、歯を食いしばり、凍える体に鞭を打った。
パソコンのモニターには、長崎県沖の海域図が広がり、低気圧の進路予測、風向き、潮流データ、波高シミュレーションが複雑に重ね合わされている。
井手はデータベースを開き、長崎県西方沖――崎戸沖の気象・海象データを次々に引き出している。
まず着手したのは、低気圧の位置と移動速度の精査だった。
最新の数値予報モデル(GPVデータ)を使い、実況と予測を照らし合わせる。
低気圧中心は五島列島の南西約百五十キロにあり、時速四十キロで北東進していた。
「やっぱり進行早まっていたか……」
解析の目を光らせる。
低気圧前面で、北西の風が平均十五メートル、瞬間二十メートル超。波高は二メートルから三メートル、沖では四メートル以上も観測されていた。
次に、風向きと潮流の解析。
冬場、この海域では対馬暖流が北東方向に流れる。
しかし、今日のような低気圧通過時は、強烈な北西風によって沿岸流が形成され、表層水は岸から沖へ流されやすくなる。
「北西風が当たる……漂流方向は南西寄りか?」
井手は、気象庁海洋速報、沿岸流予測システム(COAWST。大気・海洋・波浪・堆積物輸送を統合したシミレーションモデル。台風や海上の気象現象、漂流物の動きなどを高精度に予測できる)の流向・流速データに加え、地元漁協が提供する「崎戸潮流表」も取り出した。
「くそっ、流れが複雑だ……!」
崎戸沖は島や瀬(岩礁)が点在し、潮流が絡み合う難所だ。ちょっとした位置の違いで、流される方向も大きく変わる。
「じいちゃんの船がエンジントラブルで漂流を始めた時刻は、おそらく午後一時半から二時頃……」
潮流は東から西へ転じる時間帯だった。
そこに北西風が重なり、船は風と潮に押され、斜め南西方向に流されているはずだ。
さらに、波浪シミュレーションモデルWW3(Wave Watch III)を使い、海上の波の高さや周期、進行方向の解析も進めた。
荒天時は波の強い方向に押し流される「風浪推進力」も無視できない。
「北西風、対馬暖流、潮目の転流……」
すべての要素が頭の中で立体的に組み上がっていく。
「……いた」
井手はモニターに表示された漂流予測経路を指でなぞった。
「崎戸沖から南西約十二キロ、上五島沖合い、経度一二九度二五分、緯度三三度00分付近……」
そこは、風と潮流が合流してできる「停滞帯」に近かった。漂流物が留まりやすく、過去の遭難例でも発見率の高いエリアだ。井出は漁師時代の経験からも、この場所の可能性が高いことを確信した。
「じいちゃんはここだ!必ずここにいる!」
井手は思わず立ち上がり、声を上げた。
その瞬間、後ろにいた玲奈や優花が振り返る。
「井手君……」
「根拠は揃っています!風向き、潮流、波高、漂流モデルも確認しました。じいちゃんは、この地点に流れ着いている可能性が最も高い!」
井手の指が示した座標は、画面上で赤いマークになって点滅している。
玲奈は目を細めてデータを確認し、頷いた。
「確かに……北西風による離岸流と潮流の変化を考慮すると、理にかなっているわね」
「説得力ありますね」
松岡も頷いた。
「今、海上保安庁に連絡します!」
井手はスマホを取り出し、長崎海上保安部の番号を押した。
「もしもし、長崎海保です」
「こちらアトモス気象研究所、井手竜太郎と言います。崎戸沖で行方不明になっている漁船『源蔵丸』について、漂流経路の解析結果が出ました!」
「解析結果?」
「低気圧による北西風、沿岸流、潮目の変化、波浪推進力などを基にシミュレーションしました。恐らく現在位置は、上五島沖合い、北緯三三度00分、東経一二九度二五分付近です!」
「その根拠を詳しく……」
「メールでデータ送ります。至急、確認してください!」
井手は素早く解析資料をPDF化し、メール送信した。
数分後――
「資料、確かに受け取りました。説得力があります。早速、捜索艇と航空機に通達します!」
「お願いします!」
電話を切り、井手は深く息を吐いた。
「間に合え……」
低く呟いた声が震えていた。
玲奈がそっと声をかける。
「大丈夫。あなたの判断、きっと正しいから」
井手は無言で頷き、もう一度パソコンの海域図を見つめた。
じいちゃん、生きていろよ。俺が殴り返すまで、死ぬんじゃねぇ……。




