祖父の海④
冬の日本列島は強い寒気に覆われ、研究所の室内にも緊張感が漂っていた。
井手は、海洋データ解析ソフトを立ち上げ、九州西方沖の海域データを確認していた。
対馬暖流の上に、北西の季節風が吹き荒れ、等圧線は詰まり、波浪観測ブイは波高四メートルを記録している。
気圧配置から見ても、東シナ海を低気圧が発達しながら北東進している。
午後には海上で更に風が強まり、いわゆる「時化ピーク」の時間帯に入る。
警報級の暴風波浪注意報も出されている。
井手は不安を感じた。
祖父・源蔵の顔が脳裏をよぎる。
嫌な予感を抱えながらも、仕事に集中しようとしたその時だった。
スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、血の気が引いた。
安倍達郎。漁師時代からの仲間。
「もしもし、達郎さん?」
「竜太郎か!大変たい!源蔵さんが、戻らん!」
達郎の声が強風にかき消されるように、荒く震えていた。
「どういうことですか!?」
「昼に若い衆と網ば見に行く言うて、沖に出たとばってん、時化てきて……そいから連絡が途絶えとる!海上保安庁にも連絡しとるばってん、まだ行方わからん!」
井手は瞬間、頭が真っ白になった。
だが、すぐに沸き上がる焦燥と怒りがそれをかき消した。
「わかりました。俺が絶対探し出します!」
電話を切ると、即座にパソコンに向かい直す。
「小林さん!」
突然の声に、近くにいた優花が驚いて振り返る。
「はい!」
「長崎沖のデータ、リアルタイムでください!」
「わ、わかりました!」
優花もただならぬ気配を察し、すぐにアクセスする。
井手は震える手で海上ブイとGPS気象データを呼び出した。海上ブイとは、海上に設置された観測機器で、波の高さ、風速・風向、潮流、水温などをリアルタイムで測定し、気象や海洋の変化を記録するものである。
波高五メートル。風速十八メートル。突風帯も出現している。
「クソ……」
井手は奥歯を噛み締めた。
低気圧は、朝方よりも急発達していた。北西風が海上で強烈なブロー(突風)を伴って吹き荒れ、沿岸では五メートルを超える波が立っている。沖では更に高く、時折、七メートル級の波が観測ブイに記録されていた。
「こげな時に、出るなんて……ばかばい」
井手は現場海域の潮流データも確認した。
北東方向に潮が速く流れ、風と波が南西方向から逆行している。
「風と潮がぶつかっている……三角波だ」
瞬時に理解した。
潮流と風向きが反対に働く時、波が不規則に立ち上がり、三角形の尖った波頭になる。これに飲まれると、ベテラン漁師でもひとたまりもない。
「じいちゃん……」
視界が滲みそうになる。
必死にこみ上げる感情を押さえ込み、衛星画像に切り替えた。
雲頂高度の分布から見ても、積乱雲が列を成して進んでいる。
「ラインスクオール……」
寒冷前線に伴う強烈な帯状降水帯。短時間に突風と激しい雨をもたらし、一気に視界も奪う。
「視界ゼロで、時化、三角波……最悪だ……」
井手は携帯を手に取り、もう一度達郎に電話した。
「達郎さん、出た場所は!?」
「崎戸の沖、黒瀬の近くばい!」
崎戸沖。
井手は即座にその周辺の風・波・潮流データを絞り込み、流される方向を予測した。
北東風と南下する潮流。
源蔵たちは黒瀬沖で遭難し、流されたとすれば……。
「今は西彼杵沖、か、いや……五島灘側まで……」
井手の脳内で、海図と風向・潮流が交錯する。
「間に合え……!」
拳を握りしめ、モニターに食い込むように真っ赤になった眼で画面を睨みつける。
データを辿る指が震えた。考え込み、下を向いたその時、ふと頬の痛みと共に、源蔵の声が耳によみがえった。
(このばかちんが!)
(お前は俺の希望だ。希望が下を向くんじゃねえ)
最後に呟いたのは、殴られ、ぶつかってきた祖父への言葉だった。
「俺が殴り返すまで死ぬんじゃねぇ……くそじじい……」
低く、抑えた声だった。
隣で見守っていた玲奈や優花も、声をかけることができなかった。
ただ、井手の背中から湯気が出ているかのように伝わる「絶対に助ける」という執念に、静かに寄り添うしかなかった。




