祖父の海③
長崎から戻った翌朝、井手竜太郎は予定より二日早く、アトモス気象研究所に出社した。
まだ休みのはずの井手を見つけて、藤堂玲奈が怪訝そうに声をかける。
「井手君?明日まで休みじゃなかった?」
デスクに資料を広げながら振り向いた玲奈の表情には、驚きが浮かんでいた。
「休み、返上します。仕事、させてください」
井手は真っ直ぐ玲奈を見つめて頭を下げた。
「え?」
玲奈は思わず目を丸くした。
「休むよりも、もっと勉強したいんです。データ解析、やらせてもらえませんか」
真剣な表情。これまで見たことのない、強い意志が宿っている。
「井手君……」
玲奈は腕を組んで少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「休むのも仕事のうちよ。また働いてもらわないといけないんだから」
柔らかいが、上司としての配慮に満ちた言葉だった。
「はい。でも、お願いします」
井手の言葉は揺るがなかった。
玲奈は静かに息をつき、覚悟を決めたように頷いた。
「わかった。じゃあ……優花」
席で作業をしていた小林優花に声をかける。
「井手君に、データ解析の基本を教えてあげて」
「はい」
優花が振り向き、柔らかな笑顔を見せた。
席に案内すると、デスクトップに立ち上げた海洋データ解析ソフトを操作しながら説明を始める。
「ここに、過去二十年分の海域ごとの気象・海象データがあります。風速、風向、波高、潮流、海面水温――それから気圧配置の推移もセットになっています」
井手は画面を覗き込みながら、黙ってメモを取り始めた。
優花は続ける。
「例えば、九州西岸沖なら対馬暖流の影響があります。冬季は季節風で波浪も発達しやすい。低気圧が東シナ海を進む時は、北東風と南西風のぶつかりでうねりが複雑になります。こういうデータを見ながら、どういう状況で時化になりやすいのか、傾向をつかんでいくんです」
「はい……」
井手はペンを走らせながら、画面に映る数値やグラフを睨む。
「例えば、ここ。去年の一月末に低気圧が急発達して、大時化になった時のデータです」
優花がクリックすると、風速三十メートル、波高六メートル以上という数字が表示された。
「この時は、黄海で発達した低気圧に、北西の季節風が強化されました。低気圧の中心付近に暖湿気流が入り込んで、急に積乱雲が発達したのが原因。海上では風と波が急変しています」
「うわ……」
井手は画面の風向図を食い入るように見つめた。
「実際に船に乗っていたら、一瞬でやられるな……」
「そう。だから、こういうデータを積み重ねて、何が危険なパターンなのか掴んでいくんです」
優花の言葉に、井手は力強く頷いた。
「分かりました。やってみます」
パソコンに向かう井手の目は、確かに変わっていた。
玲奈はその様子を少し離れたところから見つめ、そっと呟く。
「……目の色、変わったわね」
「はい」
優花も同じように感じていた。
井手は、海の男の目になっていた。
井出がアトモス気象研究所に戻って二日目。
長崎県西方沖。
朝から北西風が強く、港に停泊する船の旗が激しくはためいていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、海面には白波が立っている。
「今日、時化るって予報やなかったですか、源蔵さん?」
若い衆の一人、本田が心配そうに声をかけた。
「んにゃ、わかっとる。昼過ぎから低気圧が近づくけん、荒れてくるばってん……」
源蔵は、港の防波堤の上から沖を見つめる。
潮の流れ、風の向き、雲の動き――六十年近く漁師をしてきた男の目は、自然と状況を読み取っていた。
「今んうちなら行ける。網の確認だけ済ませて、さっさと戻る。30分もあればよか」
迷いのない口調に、若い衆たちは押し黙った。
この地域では、源蔵に逆らう者はいない。彼は"海を知る男"だった。
「行くばい。本田、お前と森田、来い」
「……はい」
三人は小型漁船に乗り込んだ。
エンジンがかかり、船はゆっくり港を離れていく。
岸から見送る他の漁師たちも、どこか不安げだった。
「源蔵さんが言うなら大丈夫やろ……」
そう言い聞かせながらも、誰もが北西の空をちらりと見上げていた。
沖に出ると、風はさらに強さを増していた。
「白波が増えましたね」
森田が声を張り上げる。
「わかっとる!」
源蔵は舵を握りながら、荒れる海を睨む。沖合に仕掛けた定置網の浮き玉がようやく見えてきた。
だが、その周囲には波が立ち始めていた。
「源蔵さん、戻った方がよかですばい!」
坂本が叫ぶ。
「バカたれ!網が破れとったら、もっと損やろが!」
源蔵は怒鳴り返した。網を失えば、漁師にとっては死活問題。何十万円、いや何百万の損失になることもある。
「手早く見るけん、手伝わんか!」
源蔵は船を浮き玉に横付けし、手慣れた手つきで網を引き揚げる。
――その時だった。
突然、突風が吹き荒れた。
「うわっ!」
船が大きく傾き、三人は踏ん張った。西の水平線に、黒い雲がうねっていた。
「来るばい……!」
源蔵は唇を噛んだ。
低気圧に伴うラインスクオール(帯状積乱雲)が予想以上に早く近づいていたのだ。
「源蔵さん、網はええけん、戻りましょう!」
本田が懇願する。
「クソッ……しゃーなか!」
源蔵は網を途中で放し、舵を握り直した。
「エンジンふかせ!」
森田がスロットルを押し込む。
船は波を切り裂いて進もうとするが、逆風がそれを阻む。
ビュオオオオオ――!
容赦ない北西風が吹き荒れ、飛沫が顔に叩きつける。視界も一気に悪くなり、遠くに霞む陸地が見えなくなる。
「やべえぞ……」
本田が呟いた。
船底に響く波の衝撃音。風と潮流がぶつかり、三角波が不規則に襲いかかる。
「波に正面から突っ込むな!横向けるな!波に合わせろ!」
源蔵が怒鳴る。
だが、波はすでに二メートルを超えていた。
「来るぞ!」
巨大な三角波が前方に立ちはだかった。
「くそっ……!」
源蔵は必死に舵を切る。
ガツンッ!!
波頭に乗り上げ、船底が宙に浮いた。
「うわああっ!」
三人が同時に叫ぶ。
ドッシャーン!!
次の瞬間、船は叩きつけられるように海面に落ち、甲板を大波が襲った。
本田が滑って倒れ、森田が必死にロープを掴んだ。
「源蔵さん!」
振り返ると、源蔵が舵にしがみついていた。
だが、顔は険しい。
「エンジン……」
「え?」
「止まったぞ!」
船が波間に揺れながら漂い始める。
「クソッ……!」
必死に再始動を試みるも、エンジンはかからない。塩水をかぶって故障したのだ。
「無線!早よ、無線入れろ!」
本田が震える手で無線機を握る。
「こちら崎戸沖、源蔵丸……エンジン故障……遭難しかけてます!応答願います!」
ザーザー……
無線は雑音にかき消された。
「ふざけるな……!」
源蔵は荒れ狂う海を睨みつける。長年向き合ってきた海が、今は牙をむいている。
「おい、本田!ロープ出せ!森田、お前はバケツで水かい出せ!」
経験からくる冷静さが、源蔵を最後まで立ち続けさせる。
だが、その声も、次第に風に飲まれていく。
「くそっ……まだ死んでたまるか……!」
源蔵は歯を食いしばった。
その目には、一度も折れる色はなかった。




