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祖父の海②

長崎県崎戸町。

潮の香りが肌にまとわりつく。崎戸町の港には、小さな漁船が波に揺られながら係留され、錆びたクレーンが静かに佇んでいる。

遠くには、白波を立てる東シナ海。カモメの鳴き声が風に溶け、堤防に座る漁師たちが煙草をくゆらせながら、今日の漁の話を交わしている。今はちょうどブリやヒラメの漁が最盛期だ。

井手はその景色を眺めながら、潮風を深く吸い込んだ。懐かしい、この匂い。この風。この海が、彼の原点だった。

長崎の海は今日も穏やかだった。

防波堤に腰を下ろし、井手はぼんやりと水平線を眺めていた。

潮の香り、波の音――子どもの頃から変わらぬ光景だ。

けれど、今日はそれが妙に遠く感じる。

「……はぁ」

深いため息をついた。

東京での仕事がうまくいかない。努力してつかんだ気象予報士の資格、夢だったアトモス気象研究所への就職。

でも、現実は理想ほど甘くはなかった。

「……みんな、元気にしとるかな」

そう呟いた時だった。

ふと、背後から聞き慣れた足音が近づいてきた。

「おい、竜太郎」

振り返ると、祖父の井手源蔵がいた。

仕事を終えてきたばかりなのか、潮臭い作業着姿に、片手には缶ビール。

昼間から飲んでいるのも、いつものことだった。

「昼飯だ。戻れ」

井出は苦笑いしながら立ち上がる。

「じいちゃん……小さくなったな」

ぽつりと零すと、源蔵が眉を吊り上げた。

「失礼なことば言うな」

「はは、悪かった」

井出は足元の石を蹴りながら、ふと本音を漏らした。

「俺……やっぱり漁師継いでもよかばい」

源蔵が足を止めた。

「は?天気の仕事はどうするんか」

「……俺、漁師の方が向いとるかも知れん」

その瞬間だった。

「このバカちんが!」

源蔵がいきなり拳を振り上げ、井出の頬に一発見舞った。

頬がジンと熱くなる。

「何しょうとや!このコンプラ厳守の時代に!」

「うるせえ!孫相手にコンプラもテンプラもあるか!」

顔をしかめる井出を睨みつけ、源蔵が怒鳴る。

「お前、覚えとるか!俺が『お前みたいな少数のかけ算もろくにできないやつが、漁師辞めてインテリのするような仕事できるか』って言った時、何て言った?」

竜太郎は言葉に詰まる。

「『俺はじいさんと親父の海を守るために、日本一の気象予報士になる』って言ったやないか!」

胸の奥がギュッと締め付けられる。

「その後、お前は仕事終わってクタクタでも、小学校の教科書引っ張り出して、足し算からやり直しとったたろうが!」

源蔵の声が震え始める。

「何度落ちても諦めずに試験受けて、やっと合格して、アトモスって立派な研究所入ったっちゃないか!お前みたいに、ケンカばかりして補導されるようなガキだったやつがやぞ!」

井出は目を伏せる。

「……じいちゃん」

「お前が試験合格した時、どれだけ俺が感動したか、分かっとるとか!」

源蔵は大きく息を吸い込むと、少し声を落とした。

「何があったか知らんが……今までやっとらん仕事して、すぐうまくいくわけなかろうもん」

「……」

「すぐ役に立つやつは、すぐ役立たずになるとぞ」

一語一語、噛みしめるように言う。

「竜太郎、もう一度、今の仕事ばやれ」

源蔵がしゃがみこみ、竜太郎の両肩に手を置く。

歳は取ったが、その手にはまだ漁師として海と生きてきた力強さがあった。

「お前が思うほど、俺は老いぼれとらんばい。舟は老いぼれたら、人に譲る。そげなもんたい」

井出は涙をこらえきれなくなる。

「お前は俺の希望だ」

源蔵の目が真っ直ぐ竜太郎を捉えていた。

「希望が下向くんじゃねぇ」

涙が頬を伝う。

「じいちゃん……」

井出は拳で涙を拭き、立ち上がった。

「昼飯、要らん」

「は?」

「俺、今すぐ東京戻る」

力強く言い切った。

「竜太郎……」

源蔵は立ち上がる竜太郎を見上げ、少し驚いた表情を見せた。

だが、すぐに口元に笑みを浮かべ、ゆっくり頷いた。

「頑張れ、竜太郎」

井出は力強く歩き出す。

その背中を、源蔵はじっと見つめていた。

少し逞しくなった背中。

あの日、「気象予報士になる」と叫んでいたあの少年が、今は自分の道を歩こうとしている。

「……行け」

呟くようにそう言うと、源蔵は再び缶ビールを持ち上げ、海に向かって飲み干した。

潮風が、二人を包んでいた。


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