祖父の海①
「井手君、ちょっと。」
昼過ぎ、パソコンに向かってデータ整理をしていた井手竜太郎は、その声に背筋を伸ばした。
藤堂玲奈――アトモス気象研究所の上席主任研究員であり、直属の上司だ。冷静で仕事に厳しいことで知られている。
井手は内心で身構えながら立ち上がる。
「はい」
周囲の視線が一瞬だけ自分に向いた気がした。
松岡亮太がちらりとこちらを見たが、すぐにディスプレイに視線を戻す。沢村美咲は電話で取材対応中だ。坂本志保は、黙々と天気図をチェックしている。
井手は玲奈に促され、会議室の一室に入る。
ドアが閉まり、静かな空間になる。
「この前の海上気象情報の件だけど」
玲奈が切り出した瞬間、竜太郎の鼓動が早くなる。
あの件だ。船舶向けに出した海上風速予報。自分が担当した部分で、局所的な風の強まりを見落とした。直前になって玲奈が気が付き、修正したからよかったが、危うく遭難事故に巻き込むところだった。
「あなたの資料、ここの解析が甘かったわね」
玲奈はタブレットを操作し、該当箇所を指し示す。
「沿岸部の気圧傾度をもっと精細に見ていれば、突風の可能性は予測できたはず。これって、前にも指摘したはずよね?」
「すみません……」
「すみませんで済む話じゃないの。現場では、人の命がかかっている」
玲奈の口調は淡々としていたが、その言葉には重みがあった。
井手は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。
「あなたが海を知っていることは分かっている。でもね、現場感覚だけじゃ足りないの。机上の分析を甘く見ないこと」
「……はい」
玲奈は一息つくと、少し声を落とした。
「次は、頼むわよ」
「……失礼します」
頭を下げ、会議室を出る。
研究室に戻るまでの廊下が、いつもより長く感じる。
自分の席に座ると、無意識に大きくため息をついた。
視界の端で小林優花が心配そうにこちらを見たが、目が合う前に逸らされた。
パソコン画面を開いても、頭に入ってこない。
手は止まったままだ。
「……みんな、元気かな」
ぽつりと、独り言のように呟く。
潮風の香り、祖父の叱咤、仲間たちの笑顔。故郷・長崎の漁港の光景が脳裏に浮かぶ。
「今度の休みに、帰るか……。」
帰省など考える余裕は最近なかった。だが、無性に祖父や地元の海に会いたくなった。
背もたれに体を預け、天井を仰ぐ。
まだ、ここでやっていけるのだろうか。
そんな弱気が、胸をかすめた。
井手竜太郎は、長崎の小さな漁村に生まれた。
生まれる前、父・誠一は漁に出たまま帰ってこなかった。
突然の時化に遭遇し、船ごと呑まれたのだと、あとから聞かされた。
その日、海は荒れ狂っていた。だが、漁師にとって海に出ることは日常であり、生きる術だった。
「仕方なか」と祖父・源蔵は短く言っただけだったという。
だから、竜太郎は生まれてからずっと、祖父・源蔵と、漁協に勤める母・律子に育てられた。
中学時代、厳格で頑固一徹な祖父に反抗した。
「漁師に、甘えは許されん!」
ことあるごとにそう叱りつける祖父が、嫌で仕方なかった。
友達と遊ぶよりも、朝から舟に乗せられ、網を引かされた。
だから、腹いせのように荒れた。
仲間とつるんで学校をさぼり、外でケンカばかりしていた。
けれど、ケンカをすればするほど、祖父と母は相手に頭を下げに行くことになった。
母の細い背中、祖父の丸くなった腰。
二人がペコペコと頭を下げる姿を見るたびに、竜太郎はいたたまれなくなった。
「……せめて学校には行こう」
そう思って、地元の水産高校に進んだ。
卒業後は、祖父と一緒に漁に出るようになった。
夜明け前の暗い海。冷たい潮風。漁火に照らされた波。
舟の上で祖父に叱られながらも、いつしか「これが自分の生きる道なんだろう」と思うようになっていた。
だが、ある冬の日だった。
突然、海が荒れた。
風が吹き、波が高くなり、船が大きく揺れる。
祖父は冷静だった。
「慌てるな、竜太郎!風を読むんだ!」
必死に舵を握る祖父の背中を見ながら、竜太郎は思った。
『俺たちは、天気に生かされて、天気に殺されるんだ』
漁師として海に出る限り、それは避けられない。
けれど、もし天気をもっと正確に知ることができたら――。
親父みたいに、突然帰らぬ人になる漁師を減らせるんじゃないか。
そう考えた時、漁師ではなく、天気を知る仕事がしたいと思った。
「気象予報士になりたい」
そう言った時、祖父は烈火のごとく怒った。
「バカちん!漁師が海を捨ててどうする!」
母も心配した。
「そんな難しか試験、竜太郎にできるとね?」
でも、竜太郎は意地になった。
毎日漁を手伝いながら、夜は参考書とにらめっこした。
一度、二度、三度……四度、落ちた。
もうやめようかと思った。
それでも、五度目でようやく合格通知が届いた時、涙が出た。
思い切って、ネットで見つけた「アトモス気象研究所」の求人に応募した。
面接で緊張しながら言った。
「自分、日本一の研究所に入って、日本一の気象予報士になって、海を守りたいです!」
今思えば、青臭くて恥ずかしいセリフだ。
けれど、なぜか受かった。
こうして、長崎から上京し、日本を代表する気象研究所で働くことになった。
――だが、現実は甘くなかった。
朝から晩まで、デスクに向かい、天気図を読み、パソコンでデータ解析をする日々。
理論中心の仕事。
海に出て、風を感じ、波を見て判断していた漁師時代とはまるで違う。
どんなに海を知っていても、ここでは通用しなかった。
「井手さん、この潮流データ、ずれていますよ」
「すみません!」
「波浪予測の数値、入力ミスです」
「申し訳ありません!」
小さな海洋関係の業務を任された時も、失敗ばかりだった。
周囲を見れば、仲間が活躍している。
藤堂玲奈は、海外の一流学者と一緒に地球温暖化について共同研究をしている。小林優花は、朝の番組『モーニング・ブリーズ』でわかりやすい解説の気象キャスターを務めるだけでなく、台風進路の解析でも高く評価されていた。沢村美咲は自然情報を取り扱う『ウィークエンド・アース』のキャスターとして、環境問題などの情報を届けて人気を誇っていた。坂本志保は、スポーツ気象サポートでトップアスリートから頼られる存在だった。松岡亮太は、山岳遭難の救助において、地形と気象を読み、数々の命を救っていた。
自分は?何もない。与えられた仕事さえ、まともにこなせない。
『日本一の気象予報士になって、海を守りたい』
あの日、堂々と口にした言葉が、今はただ重く、苦しいだけだった。
現実の前で、自分はあまりに無力だった。
井手はデスクに座ったまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
『……俺は、ここでやっていけるのか?』
胸の奥に、どうしようもない不安と焦りが渦巻いていた。
年末年始が近づき、アトモス気象研究所のフロアにも、どこか普段より和やかな空気が漂っていた。
とはいえ、ここは天気を相手にする仕事場だ。休暇中だろうと災害が起これば即座に駆けつけねばならない。
井手もまた、年末年始は仕事に当たり、年を越してからの成人の日あたりに休暇をもらうことになっていた。
「ふぅ……」
勤務を終え、東京の冬空の下、冷たい風に身をすくませながら、最寄り駅に向かう。
空を見上げると、澄んだ空気に星がちらほら瞬いている。けれど、どこか寂しさが胸をよぎった。
「……母ちゃんにでも電話するか」
ふと、スマホを取り出し、実家の母親・律子の番号を押す。
春に上京してから、一度も声を聞いていなかった。
コール音が数回鳴ると、懐かしい声が耳に飛び込んできた。
「もしもし?」
「母ちゃん、俺」
「竜太郎!? どげんしたと!?」
柔らかい長崎訛りが、冷え切った心にじんわりと染み渡る。
「……俺、来月の休みに帰る」
「本当ね!? いやぁ、そりゃ嬉しかばい! おじいちゃんも、あんたが上京してから寂しそうやったけん」
「そうか……」
懐かしい祖父・源蔵の顔が頭をよぎる。昔と変わらず、朝早くから舟を出しているのだろうか。
「また、詳しいことは後で連絡するけん。じゃあ……」
向こうはまだ何か言いたげだった。
「体は大丈夫ね?」
「風邪ひいとらんね?」
そんな言葉が聞こえそうだったが、竜太郎は慌てて切った。
それ以上話すと、胸がいっぱいになって涙が出そうだった。
スマホをポケットに押し込むと、長崎の海を思い出す。
冬の冷たい潮風の匂い、朝焼けに照らされた波、祖父や父が立っていた船の上の光景――。
「はぁ……」
深く息を吐いた。
故郷が、恋しかった。
春からこっち、慣れない仕事に追われ、がむしゃらに過ごしてきたけれど、やっぱり心のどこかで寂しかったんだろう。
足元から響く靴音を聞きながら、竜太郎は駅に向かってとぼとぼと歩き出した。
遠くに見える高層ビルの灯りが、ほんの少し滲んで見えた。




