夏の香り
向日葵の花が咲く頃には、すでに彼女は隣にいた―――気がする。
花火の音。
屋台の灯り。
ぬるい夜風。
ラムネの瓶についた水滴。
思い出せるものはたくさんあるのに、肝心な部分だけが、指の隙間から零れていく。彼女が最初になにを言ったのか。どんな顔で、どんなことで笑ったのか。浴衣の帯が何色だったのか。それでも。彼女の髪に輝く、白い彼岸花の髪飾りだけ。それだけは、昨日のことのように覚えていた。
「りんご飴、食べる?」
「いらない。絶対食べきれないし」
そう言いながら、彼女は結局一番大きいのを選んだ。彼女の小さい口に、大きなりんご。屋台の明かりが、彼女の横顔を赤く染めていた。笑っている。ちゃんと、そこにいる。―――なのに。ふと瞬きをした瞬間、彼女の姿が人混みに紛れて見えなくなった。心臓が、嫌な音を立てる。
「あれ―――」
すぐ隣にいたはずなのに。慌てて辺りを見回した次の瞬間、後ろから袖を引っ張られた。
「なにしてんの?」
振り返ると、彼女は呆れた顔で立っていた。右手には、食べかけのりんご飴。言葉が詰まる。見失った、と思った。でも、そんなはずない。ほんの数秒だ。
「ぼーっとしすぎ」
彼女はそう笑って、また歩き出す。湿った風が吹いた。なのに甘い匂いがした。
「それにしても、似合うね」
「りんご飴が?」
「浴衣」
一瞬だけ、彼女が目を丸くした。それから困ったみたいに笑って、小さく「ばか」と呟く。
風が吹いた。甘い匂いがした。りんご飴だったのか、彼女の香水だったのか、今ではもうわからない。
屋台の明かりが彼女の横顔を照らしていた。なのに、どうしてか。写真を撮ろうとした指が動かせなかった。
「そろそろ花火始まるから、移動しようよ。」
そう声をかけてきたのは彼女だった。彼女の手にあるりんご飴は、まだ半分も減っていなかった。
花火はとても、美しかった。遅れて腹の奥に響く音が、夜空を震わせる。周りの歓声も、屋台の呼び込みも、その瞬間だけ遠くなった。彼女が「たまや」なんて子供みたいなことを叫びだしたときは、驚いたけど。僕もつられて、ついつい言ってしまったじゃないか。だけど、悪い気はしなかった。とても、心地が良かった。
花火も終盤。規模が大きくなって、叫ばないと彼女に声が届かなかった。
「来年もまた、花火見たいね。」
つい口に出してしまった。来年も、彼女の隣にいられるのだろうか。彼女を、幸せにできるのだろうか。どうせ断られる。僕は、ただの友達。恋人なんかなれっこない。
「何も聞こえない」なんて言葉が返ってきたから、今度は耳が壊れるくらい大きな声で言った。
「そうだね。今度は綿あめでも食べながらみたいな」
彼女も大声で、予想外な返答をくれた。僕は思わず、飲んでいたラムネを吹き出してしまった。そんな動揺しなくても、と少しからかっているような笑い声がしたけど、花火の音で聞こえなかったということにしておこう。
「綺麗だったね」
「うん。絶対にまた来年も見よう」
観衆のざわめきに飲み込まれないよう、手を繋いで歩いた。花火の後だから、やや人が多い。突然、手からあたたかいものが消えた。驚いて、ふと後ろを振り向いた。
振り向いたとき、彼女はいなかった。さっきまで、二人で笑ってあっていたというのに。いや―――振り返る前からいなかったのかも、しれない。
そういえば、一緒に居たはずの友達は、誰と話していたのだろう。隣に彼女がいたはずなのに、笑い声が思い出せない。思い出せるのは友達の、豪快な笑い声だけ。
写真も見た気がする。何度もスマホのアルバムを開いた。指が痛くなるくらい画面をスクロールした。屋台。花火。友達。ラムネ。どこにも居なかった。確かに見せてもらったのに。「もう一度見せてくれ」と言えばよかったはずなのに。けれど、口がうまく動かせなかった。
それでも。彼女の金木犀の香水と、向日葵の匂いだけは。僕の中から、消えてくれやしない。
次の日も、また次の日も。僕たちはほぼ毎日会って、遊んで。大学の後期が始まってから、会う頻度は少し減ってしまったけれど。




