春の香り
桜の匂いがした。
大学に向かう坂道にはうすく霧が出ていた。白くぼやけた景色の中を、人々は何事もなかったかのように歩いている。なのに僕だけ、宙に浮いた気分だった。地球からの引力も、酸素の感覚も、どこか遠かった。まるで僕だけ、この世に存在していないみたいだった。
その中で―――ひとつだけ。なぜか、はっきりと見えたものがあった。
光だと思った。けれど、それは人のようだった。その人だけが、ちゃんとこの世界に存在していた。不自然なほど鮮明で、まるでそこだけ切り取られたみたいに浮かび上がっていた。
どうしてか分からない。顔も、名前も知らないはずなのに。
目が、離せなかった。離してはいけない気がしたのかもしれない。ただ単に、離したくなかったのかもしれない。どちらにせよ、理由なんてどうでもよかった。ただ、その人を見ていた。
暖かな風が吹いた。ふわり、と。その人の髪が揺れる。一瞬で、胸の奥に何かが落ちた。音もなく、確かに。言葉にできるようなものじゃない。見てはいけない。関わってはいけない。そう思うのに、足が、自然と彼女の方へ向かう。
砂利を踏む音がやけに大きく響いて、心臓の音と重なって。少しうるさかった。それでも一歩。また一歩と、足は動いていく。霧の中、姿が少しずつ輪郭を持ち始める。
なのに。近づけば近づくほど、なぜか遠くなるような気がした。 手を伸ばせば触れられるはずの距離なのに、どこか、ずれていた。
「―――あの」
声をかけようとして―――やめた。
どうしてやめたのか、今でも分からない。喉まで出かかった言葉は、そのまま消えていった。声をかけてしまえば、全てが崩れてしまうと、思った。
その人から、視線を感じた。目が合ったのかどうかすらわからない。いや、振り返られたのかどうかさえ、曖昧だった。ただ、視線を感じた。
次の瞬間。
風が、少し強く吹いた。視界が白く揺れる。桜の花びらが舞って、霧と混ざり合って、すべてを覆い隠した。ほんの一瞬だったと思う。けれど、気づいた時には彼女の姿はそこになかった。残っていたのは、ほのかな香りだけだった。それが桜の匂いだったのかどうかは、わからない。
あれが、最初だった。そう思っているけれど。心の奥深くに、何かがつっかかっている。




