雨の香り
日も暮れてきた頃、僕はレポートを書くために大学の図書館へ行った。するとそこには、難しそうな顔をしている彼女がいた。
「なに、急に隣に座ってきて。みてわからない?私今忙しいんだけど」
たしかに、彼女の眼の前にはパソコンと、山積みにされた本があった。
「空いてる席がここしかなかったんだ。隣でレポートでも書かせておくれよ」
嘘だった。金曜日のこの時間は、みんなだいたい飲みに行っているため、席は空いていた。彼女は何も言わず、また眼の前の課題に取り組んでいた。
ページをめくる音だけが響いていた。閉館前の図書館は妙に静かで、誰かの咳払いすら遠く感じる。
彼女は難しそうな顔でレポートを書いていた。時々髪を耳にかけるたび、甘い匂いがふわりと漂う。金木犀―――いや、違う。春みたいな、雨上がりみたいな、名前のつけられない匂い。
「さっきから、なに」
「いや」と声を出しかけたが、彼女が言葉を紡ぎそうな勢いだったので、静かに話を聞いてみた。
「ぼーっとしちゃってさ。人の顔見てレポート進むわけ?」
「進まない」
「じゃあ帰れば?」
追い払うような言い方なのに、彼女は席を立たなかった。窓の外では雨が降っていた。街灯に照らされた雨粒が、やけに白く見える。
「雨、強くなってきたね」
「私傘ないかも。あんた傘、ある?」
「ない」
「最悪」
そう言って彼女は少し笑った。その瞬間、胸の奥が妙に苦しくなった。どうして顔を見るだけで、こんなにも安心するんだろう。
「ねえ、もしもの話してもいい?」
彼女はキーボードを打つ手を止めないまま言った。
「私が急に居なくなったら、どうする?」
若干笑い気味の声の気もした。ただどこか、現実味を帯びている気もした。
「探す、かな。」
そう答えると、彼女は少しだけ笑った。「そっか」という、安心したような、小さな声が聞こえた気もした。
雨音が、少し強くなる。窓に映る彼女の姿が、ほんの一瞬だけ知らない誰かに見えた。
気付けば、図書館も閉館時間となってしまった。僕は彼女と二人で濡れながら帰った。
雨も止み、僕と彼女は別れようとしていた。彼女の渡る横断歩道。霞む信号機。やけに明るい光りに照らされるアスファルト。そして叫ぶ君。
その日から、僕は記憶が全く無い。




