第99話 谷へ向かう
尋問が終わったあと、洞窟の中にはしばらく奇妙な静けさが残っていた。
岩肌に刻まれた魔力抽出の術式、転がる容器、壊された檻。
そして、縛り上げられた男。
ここが何の場所だったのかを、嫌でも思い出させる光景だった。
ロイドはゆっくりと周囲を見回しながら、床に刻まれた術式をノートに写していた。魔力の流れを確認するように指先で線をなぞり、時折小さく何かを書き足していく。その横でマットは腕を組み、縛られた男を見下ろしていた。
男はすでに簀巻きにされている。アミノの糸とロープを併用した拘束は、見た目以上に頑丈で、身動きひとつ取れないらしい。
アルエは洞窟の入り口近くの岩に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「で、どうするの? この人」
ロイドが顔を上げる。
「普通ならギルドへ引き渡しだね」
「普通なら、ね」
アルエは眉をひそめた。
「でもここからカタリナまでって、普通に行ったら一週間くらいかかるでしょ」
「そうだな」
マットも頷く。
火山地帯の奥にあるこの洞窟から街へ戻るには、山を越え、森を抜け、さらに街道を辿らなければならない。急いでも数日はかかる距離だ。
その間に証拠が消される可能性は十分にある。
谷の受け渡し場所も、今の話が本当なら三日に一度。
時間は決して多くない。
しばらく沈黙が流れたあと、リーリヤがふっと手を叩いた。
「じゃあ、こうしよ」
全員の視線が彼女に集まる。
リーリヤはさらりと言った。
「私がササミに乗ってカタリナまで行く」
アルエが目を瞬く。
「え?」
「ササミなら飛べるし、一直線で行けばすぐ戻ってこれるでしょ。だからみんなはここに残って、さっきこいつが言ってた谷の受け渡し場所を見張って」
リーリヤは縛られた男を軽く足でつついた。
男はびくりと体を震わせる。
「このことはまだ向こうに気づかれてない。尻尾を掴むなら今だよ」
その言葉に、ロイドがゆっくり頷いた。
「理にかなっているね」
アルエはまだ少し不安そうな顔をしている。
「でも一人で大丈夫なの?」
リーリヤは肩をすくめた。
「大丈夫よ。ね、ササミ?」
少し離れた場所で岩を突いていたササミが顔を上げた。
「クエ!」
元気な鳴き声が洞窟に響く。
ロイドは顎に手を当てた。
「ササミさんならリーリヤとも従魔契約がある。単独行動をするなら適任だろうね」
そして何か思い出したように、自分の荷物を探り始めた。
すぐに一冊のノートを取り出す。
「なら、これも一緒に」
ロイドはそれをリーリヤへ差し出した。
リーリヤは受け取り、ぱらりとめくる。
そこには洞窟で見つけた術式、容器の構造、魔力抽出の痕跡、そして男の証言の要点まで、びっしりとまとめられていた。
「ここで得た証拠と資料をまとめたものだ。この男と一緒に突き出せば話は早いと思う」
リーリヤは感心したように口笛を吹く。
「仕事が早いね」
「観察は僕の役目だからね」
ロイドは眼鏡を押し上げた。
リーリヤはノートを腰のポーチにしまい、軽く手を振る。
「わかった。じゃあ、みんなまた後で!」
そのまま彼女は軽く地面を蹴り、ササミの背へひらりと飛び乗った。
ササミは大きく翼を広げる。
そして。
その爪には、簀巻きにされた男がぶら下がっていた。
「ちょ、ちょっと待て! 俺ほんとに飛ぶの嫌なんだって! 高いところ苦手なんだよ!!」
男の悲鳴が洞窟に響く。
リーリヤはまったく気にしていない。
「落とさないでよ、ササミ」
「クエ!」
元気な返事。
次の瞬間。
巨大な翼が一度大きくはためいた。
風が洞窟の中へ吹き込み、砂埃が舞い上がる。
ササミはそのまま洞窟の外へ飛び出し、ぐんぐん高度を上げていった。
男の悲鳴が山の空へ吸い込まれていく。
「いやああああああああ!!!」
声は次第に小さくなり。
やがて、聞こえなくなった。
残された三人は、しばらく無言で空を見上げていた。
最初に口を開いたのはアルエだった。
「……今日のリーリヤ、ほんとに怖かった」
そう言いながら、その場にぺたりと座り込む。
マットも腕を組んだまま頷いた。
「まあ、分かる」
ロイドはササミが消えた空を見つめながら、ぽつりと呟く。
「まったく、どこであんな技術を覚えたんだろうね」
マットは少し遠い目をした。
「母さんだな」
「え?」
アルエが顔を上げる。
マットは肩をすくめた。
「本当に、父さんがやらかした時にはあんな感じだった」
アルエの目が丸くなる。
「え、おばさんもあんな感じだったの?」
「ああ」
マットは即答した。
「月に一度くらいは見た光景だ」
アルエはしばらく黙り、やがてぽつりと呟いた。
「そんな頻度でやってればリーリヤも覚えるわ」
ロイドが小さく笑う。
「環境というのは恐ろしいものだね」
リーリヤの恐ろしい一面の余韻に浸りながら、三人は洞窟を後にした。
目指すのは、男が言っていた受け渡しの谷。
火山地帯の外れにある場所だ。
洞窟を出ると、相変わらず火山特有の熱気が空気を満たしていた。
地面には黒い玄武岩が広がり、ところどころから硫黄の匂いが立ち上っている。遠くでは溶岩の流れが赤く輝き、地面の亀裂から熱い蒸気が吹き上がっていた。
ササミがいないだけで、妙に静かに感じる。
「じゃあ、行くか」
マットが歩き出す。
アルエも立ち上がり、その後ろを追った。
ロイドは最後にもう一度洞窟を振り返り、小さく息を吐く。
「さて」
彼は眼鏡を押し上げた。
「次は、本丸に近づく番だね」
そして三人は火山地帯を進み始めた。
谷へ向かう道は、想像していた以上に険しかった。
火山の外縁に近づくにつれ、地形は徐々に荒れていく。黒い岩壁が幾重にも重なり、溶岩が冷えて固まった波のような地面が続いていた。
足場は決して良くない。
だがマットはそんなことは気にしていない。
むしろ、途中で見つけた黒い岩の塊を軽々と持ち上げていた。
アルエが呆れた声を出す。
「まだやるの?」
マットは真面目な顔で答える。
「環境がいい」
「何が」
「熱と重量だ」
そう言いながら、マットは岩を肩へ担ぎ上げる。人間三人分はありそうな黒い玄武岩の塊だ。
だが彼はそこで止まらなかった。
近くの岩壁へ歩み寄り、背中を壁へ押し付けるように立つ。
「……よし」
そのまま膝を曲げ、岩壁と岩の間に自分の体を挟むようにして体勢を固定する。
アルエが眉をひそめた。
「何それ」
「壁スクワットだ」
「いや名前の問題じゃない」
マットは動きを止めない。
岩を担いだまま腰を落とし、ゆっくりと立ち上がる。火山の熱気で汗が一気に噴き出し、足元の岩にぽたぽたと落ちていく。
さらに彼は片足を持ち上げた。
「……片脚」
アルエが思わず声を上げる。
「ちょっと待って、それ絶対普通のトレーニングじゃないわよ!」
マットは息を整えながら答える。
「地面が不安定だからな。体幹も鍛えられる」
ロイドが興味深そうに観察していた。
「なるほど。高温環境による持久負荷、重量負荷、さらに不整地による体幹強化か。効率的だね」
アルエが顔を覆う。
「ロイドまで分析しないで」
マットはさらに岩を持ち上げ、今度は腕だけで押し上げ始めた。
「ついでに肩も鍛える」
「ついでの規模じゃないのよそれ」
アルエが深くため息をついた。
その時だった。
岩場の向こうから、ガリ、と硬い岩を削るような音が響く。
ロイドがすぐに顔を上げた。
「……何かいるね」
次の瞬間、黒い岩陰から巨大な影が飛び出した。
それは火山地帯特有のモンスター――ラヴァバイソンだった。
体長は三メートル近く。岩のように硬い皮膚を持つ巨体の獣で、角は溶岩を吸って赤く輝いている。足踏みするたびに地面の小石が跳ね、鼻息は白い蒸気となって噴き出していた。
アルエが身構える。
「ちょっと、来たわよ!」
しかしマットは逃げもしない。
むしろ、ゆっくりと岩を肩から降ろした。
そして満足そうに頷く。
「丁度いい」
「何が!?」
アルエが叫ぶ。
マットは拳を握り、肩を回した。
「実戦負荷だ」
次の瞬間、ラヴァバイソンが地面を蹴った。
岩を砕きながら突進してくる巨体。
普通の冒険者なら回避か魔法で迎撃する場面だ。
だがマットは逃げない。
むしろその場で腰を落とした。
「よし」
アルエが目を見開く。
「ちょっと待って、まさか――」
衝突。
轟音が谷に響いた。
マットはラヴァバイソンの角を正面から掴み、全身の筋肉を軋ませながらその突進を受け止めていた。
地面が削れ、靴の下の岩が砕ける。
それでも彼は動かない。
「ぐっ……いいな……!」
むしろ嬉しそうだった。
「ちょっとマット!? それトレーニングなの!?」
「押し相撲だ!」
ラヴァバイソンが怒り狂ったように力を込める。
マットはそれに合わせてさらに腰を落とす。
「耐久トレーニングには……丁度いい!」
ロイドが感心したように呟く。
「なるほど。自然発生の重量負荷か」
アルエが頭を抱える。
「もうやだこの人たち」
数秒の拮抗のあと。
マットは突然踏み込み、巨体の角を掴んだまま体をひねった。
「せいっ!」
ラヴァバイソンの体が横へ流れる。
そのまま勢いを利用して地面へ叩きつけられた。
ドォン、と鈍い音。
岩の地面が大きく揺れる。
ラヴァバイソンは目を回し、そのまま動かなくなった。
マットは肩を回しながら息を吐く。
「……いい負荷だった」
アルエは完全に呆れた顔で言った。
「モンスターをダンベル代わりにしないでよ……」
マットが肩を鳴らしていると、少し離れた岩場で妙なものが動いた。
アルエが目を細める。
「……なんだあれ?」
黒い岩の塊が、ゆっくりと前進していた。最初はただの岩にしか見えない。だがよく見ると、その下から太い脚がのっそりと動き、岩の塊そのものが呼吸するように上下している。
ロイドがすぐに気づいた。
「ストーンタートルだね」
「随分重そうな名前だな」
マットが腕を組みながら言う。
ロイドは頷いた。
「うん。その名の通り重いよ。甲羅はほとんど岩そのものだからね。普通の冒険者じゃひっくり返すことも出来ない」
その説明を聞いた瞬間だった。
マットの目がきらりと光る。
そして次の瞬間。
彼は一目散に駆け出していた。
「ちょっと!マット何する気よ!」
アルエが慌てて叫ぶ。
マットは振り向きもせず答えた。
「デッドリフト!」
「意味わかんない!」
ストーンタートルはのそのそと歩いている。敵意はほとんどないらしく、三人を気にも留めていない。
だがマットはその巨体の横へ回り込み、腰を落とした。
甲羅の下に腕を差し込み、岩のような甲羅をぐっと持ち上げようとする。
びくともしない。
普通ならそこで諦める。
しかしマットは逆に嬉しそうだった。
「……いいな」
筋肉がきしみ、腕の血管が浮き上がる。
足元の玄武岩がミシミシと音を立てる。
「ぐっ……これは……効く……!」
ロイドが冷静に観察している。
「ストーンタートルの体重は大体二トン前後と言われているね」
アルエが叫んだ。
「そんな情報今言う!?」
マットは歯を食いしばり、さらに力を込める。
すると、ほんのわずかだが甲羅が浮いた。
ストーンタートルが驚いたように首を伸ばす。
「おおおお……!」
マットはそのまま数秒だけ持ち上げ、ゆっくりと下ろした。
どすん、と重たい音が地面に響く。
マットは大きく息を吐いた。
「……完璧だ」
アルエは完全に呆れた顔だった。
「はあ。どこまで来てもやってることは村のジムと大差ないじゃない」
ロイドは感心したようにメモを取っている。
「自然環境利用型トレーニング……実に興味深いね」
それでも三人の足取りは軽かった。
空は赤く霞み、遠くには巨大な裂け目のような地形が見えてくる。
谷だ。
どうやら本当に、巨大な噴火と長い年月の侵食で作られた地形らしい。
黒い岩の壁が切り立ち、まるで大地が真っ二つに裂けたかのような景色だった。
マットは岩を地面に置き、谷を見下ろした。
「……ここか」
ロイドもその横に並ぶ。
「おそらくね」
アルエは少し身を乗り出し、谷の底を覗き込む。
風が吹き抜け、深い谷底から熱気がゆらりと立ち上っていた。
人の気配はまだない。
だが。
確かに、何かが起きている場所の空気だった。
ロイドは静かに言う。
「さて」
「狩りの時間だ」
三人は視線を交わし、小さく頷いた。




