第94話 消えかけた炎
それから半日ほど。
一行は火山地帯を練り歩いていた。
溶岩の流れた跡を越え、硫黄の蒸気が立ち上る谷を回り込み、黒い岩丘を一つ一つ確かめながら進む。歩くたびに靴底が熱を帯び、岩肌へ触れればじんわりとした温度が掌へ伝わってきた。
リーリヤの作った簡易スプリンクラーは、すでに二度ほど作り直されている。
霧状の水が時折降り注ぎ、そのたびにじゅう、と小さく蒸発する音が響く。氷塊も途中でいくつか消費されていたが、それでもこの灼熱の環境で活動するには十分な助けになっていた。
そして。
マットはと言えば。
背中に黒い岩の塊を背負っていた。
人の背丈ほどある玄武岩の塊である。
最初にそれを担ぎ上げた時こそアルエが悲鳴をあげ、リーリヤが頭を抱え、ロイドが半ば研究対象を見るような目で観察していたものだが――。
半日も経てば、もはや誰も何も言わなくなっていた。
リーリヤですら、今はただ淡々と歩いている。
「……慣れって怖いわね」
ぽつりと呟く。
アルエが横で頷いた。
「うん。あたしももう気にしないことにした」
マットはそんな会話をまったく気にしていない。
「いい環境だな」
肩の岩を少し持ち上げ直しながら言う。
「この温度なら自然に心拍が上がる。呼吸も深くなる。負荷としてはかなり理想的だ」
「それは依頼が終わってから考えなさい」
リーリヤが機械的に返した。
「効率の問題だ」
「今は調査の効率を優先して」
「なるほど」
マットは一応納得したように頷いたが、岩は下ろさなかった。
そんなやり取りの中で、先頭を進んでいたカーボが突然足を止めた。
耳がぴくりと動く。
そして。
「ウォン!」
低く、しかしはっきりとした声で吠えた。
マットたちが一斉に振り向く。
カーボは岩場の一角を見つめ、鼻をひくひくと動かしていた。
「何か見つけたの?」
アルエが身を乗り出す。
そこへロイドが駆け寄った。
岩の裂け目を覗き込み、地面へ手を触れる。
しばらく無言で観察していたが、やがて小さく息を吐いた。
「うん」
そして振り返る。
「間違いない。これはマナフェニックスの痕跡だね」
「ほんと?」
アルエが声を上げる。
ロイドは頷き、地面の焦げ跡を指差した。
「この燃焼痕。普通の炎じゃない。魔力を含んだ火炎が高温で燃え上がった跡だ」
「それに――」
岩の隙間から、赤金色の小さな羽を摘み上げる。
「この羽毛。間違いなくフェニックスのものだ」
そう言うと、ロイドは振り向いてカーボの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「カーボさん、お手柄だよ」
カーボは満足そうに喉を鳴らす。
尻尾も大きく揺れていた。
マットが頷く。
「さすがだな」
リーリヤも軽く微笑んだ。
「嗅覚は本当に頼りになるわね」
そこから先は早かった。
痕跡は決して分かりやすいものではない。
だが、羽毛。
燃え跡。
焦げた岩。
そういった小さな手掛かりを拾い集めていくことで、ロイドは徐々に進むべき方向を絞っていった。
カーボも鼻を使って追跡を続ける。
時折立ち止まり、空気の匂いを確かめながら、慎重に岩場を進んでいく。
火山地帯の風は気まぐれだ。
熱気の流れが匂いを散らし、硫黄の匂いが追跡を紛らわせる。
それでも、確実に。
少しずつ。
彼らはフェニックスへ近づいていった。
そして。
岩丘を一つ越えたとき。
ロイドが足を止める。
「……いた」
その声は小さかった。
皆が視線を向ける。
そこにいたのは、一羽の鳥だった。
炎のような赤金色の羽。
尾は細長く、揺れるたびに淡い火の粉が舞う。
間違いない。
マナフェニックスだった。
だが。
その姿は、あまりにも弱々しかった。
岩陰へ体を寄せるようにして座り込み、翼は半ば地面へ垂れている。羽の輝きも本来の鮮やかさを失い、どこかくすんで見えた。
マットたちの存在に気づくと、ゆっくりと顔を上げる。
黄金色の瞳がこちらを見た。
警戒はしている。
だが。
逃げない。
いや。
逃げられないのだろう。
威嚇の動きすら見せず、ただじっとこちらを見つめている。
アルエが小声で言った。
「……なんか、おかしくない?」
リーリヤも頷く。
「フェニックスって、もっと元気な生き物じゃないの?」
ロイドは黙って観察していた。
その表情が、ゆっくりと険しくなる。
「妙だな」
小さく呟く。
「この状態は……普通じゃない」
火山の熱風が吹き抜ける。
それでも。
そのフェニックスは、炎を纏うことすらせず、ただ弱々しく座り込んでいた。
マットはしばらくその様子を見ていたが、やがて岩を背負ったまま一歩前へ出た。
「逃げないのか」
フェニックスはわずかに首を動かす。
黄金色の瞳がマットを見つめた。
敵意はある。
だが、攻撃の意思はない。
それどころか、羽を広げる力すら残っていないように見えた。
リーリヤが小声で言う。
「マット、気を付けて」
「分かってる」
マットはゆっくりと手を差し出した。
そして静かに魔力を流す。
「ヒール」
淡い緑の光がフェニックスの体を包む。
しかし――。
変化は、ほとんどなかった。
羽がわずかに揺れただけで、弱々しい姿は変わらない。
マットは眉をひそめる。
「……おかしいな」
ロイドが横から覗き込む。
「どうしたんだい?」
「傷がない」
マットはフェニックスの体を見ながら言った。
「外傷がほとんどない。なのに、この弱り方だ」
ロイドも羽の状態を観察する。
焦げ跡はある。
だが、それは火山地帯にいる生き物なら珍しくない程度のものだった。
致命傷になりそうな傷は、確かに見当たらない。
「……なるほど」
ロイドの目が細くなる。
「じゃあ原因は別だね」
マットは少し考えたあと、もう一度手を差し出した。
「試してみるか」
リーリヤが首を傾げる。
「何を?」
「こっちだ」
マットは目を閉じる。
回復魔法を使うときとは、少し違うイメージ。
空の器。
そこへ満ちていく魔力。
満たされていく感覚を思い描く。
すると。
手のひらから漏れ出した光は、いつもの緑ではなかった。
淡い青色。
柔らかな光がフェニックスの体を包み込む。
その瞬間だった。
フェニックスの羽が、かすかに光を帯びた。
アルエが声を上げる。
「ちょっと!見て!」
赤金色だった羽が、ゆっくりと輝きを取り戻していく。
弱々しかった炎の粒が、羽の隙間からふわりと舞い上がる。
フェニックス自身も驚いたように体を震わせた。
ロイドが思わず身を乗り出す。
「まさか……」
マットが小さく呟く。
「魔力切れか」
フェニックスはゆっくりと首を持ち上げた。
さっきよりも確実に、瞳に力が戻っている。
その様子を、ロイドは食い入るように観察していた。
数歩近づき、羽の状態、呼吸、瞳の動きを順に確認する。研究者の目だった。
「……なるほど」
ロイドは小さく息を吐く。
「ほぼ間違いないね」
アルエが腕を組む。
「何がよ」
ロイドはフェニックスの羽を指差した。
「羽毛の輝きが戻り始めている。フェニックスという種はね、体内魔力の循環量がそのまま生命力に直結している生き物なんだ」
リーリヤが静かに頷く。
「つまり?」
「魔力を抜かれていた」
ロイドは断言した。
「かなりの量をね。普通の消耗じゃない。自然に魔力が減った個体なら、こんなに衰弱する前に巣へ戻るし、外敵に対しても最低限の威嚇はする」
彼は周囲の岩肌を見回す。
「でもこの個体は違う。逃げもしない。攻撃もしない。完全にエネルギーを使い果たした状態だ」
マットが眉をひそめた。
「誰かに吸い取られたってことか?」
ロイドはゆっくり頷く。
「その可能性が高い。しかも、かなり効率の良い方法でね」
そう言うと、ロイドはフェニックスの周囲の地面へ視線を落とす。
焦げ跡、岩の欠片、わずかな魔力残滓。
それらを順に見ていきながら、小さく呟いた。
「フェニックスは魔力の塊みたいな存在だ。もし誰かが強制進化の実験を続けているなら……」
そこで言葉を切る。
そして静かに続けた。
「これほど都合のいい“燃料”はない」
その時だった。
フェニックスが、ゆっくりと首を傾けた。
逃げない。
それどころか、じっとマットを見つめている。
黄金色の瞳が細まり、まるで値踏みするような視線が向けられた。
マットはその視線を真正面から受け止める。
しばらくの間、どちらも動かなかった。
火山の熱風だけが岩肌を撫で、蒸気の音が遠くで鳴っている。
アルエが小声で呟く。
「……何してるの、あれ」
リーリヤも首を傾げた。
「さあ……でも、逃げる気はなさそうね」
ロイドは興味深そうに腕を組む。
「フェニックスは知能が高い。状況を見極めている可能性はあるね」
フェニックスはまだマットを見ていた。
まるで何かを確かめているように。
そして――。
「クエー」
間の抜けた声が横から響いた。
ササミだった。
いつの間にか戻ってきていたらしい。嘴の先には硫黄鉱石の粉がこびりつき、いかにも満足げな顔をしている。
ササミはフェニックスを見る。
次にマットを見る。
そして、もう一度フェニックスを見る。
「クエ」
短く鳴いた。
その声を聞いた瞬間、フェニックスの様子がわずかに変わった。
瞳が細まり、どこか満足したような気配が漂う。
次の瞬間、羽がゆっくりと広がった。
炎の粒がふわりと舞う。
そしてそのまま、フェニックスは静かに宙へ舞い上がった。
上空へ。
火山の熱風を受けながら、ゆっくりと旋回を始める。
マットがそれを見上げた。
「……何してるんだ、あれ」
アルエも空を見上げる。
「さあ?」
その時だった。
ぐい、と。
マットの首元の服が引っ張られる。
振り向くと、ササミが嘴で襟を咥えていた。
「おい」
ササミはそのまま、ずるずるとマットを引きずるようにして歩き始める。
「ちょっと待て。何だこれは」
アルエが笑いをこらえながら言う。
「運ばれてるわよ、あんた」
リーリヤは空のフェニックスを見上げたあと、ササミの動きを見る。
そしてふと気づいたように言った。
「……もしかして」
「ササミ、あのフェニックスがどこかに連れていこうとしてるの?」
ササミは振り向いた。
「クエ」
短く鳴く。
その瞬間。
ぽい、と。
マットが地面へ落とされた。
どうやら意思が伝わったなら、別に運ぶ気はないらしい。
マットは立ち上がり、服の砂を払った。
「……まあ、いいか」
空を見上げる。
フェニックスはまだ旋回していた。
明らかにこちらを待っている。
「行くぞ」
マットが歩き出す。
カーボもすぐに後ろへついた。
ササミは満足そうに一声鳴く。
上空ではフェニックスが静かに旋回を続けている。
まるで道案内をするかのように。
こうして一行は、火の鳥の後を追うことになった。




