第90話 マグマドレイク
暴走を止められた巨大な個体は、しばらくその場から動かなかった。
岩丘の奥に広がる崩れた研究所跡。その中心で、進化の途中に取り残されたような巨体が、静かな呼吸を繰り返している。先ほどまで鱗の隙間から噴き出していた炎はほとんど消え、漏れ出していた魔力も目に見えて落ち着いていた。それでも、普通のフレアリザードとは比べものにならない圧は残っている。横たわっているだけで周囲の空気が熱を帯び、岩肌はじんわりと汗をかいたように湿っていた。
もっとも、その光景を最も熱心に観察しているのはロイドだった。
マットたちは少し距離を取り、半ば呆れたようにその様子を眺めている。ロイドだけが、一歩二歩と遠慮なく近づき、巨体の周囲を歩き回っていた。時折しゃがみ込み、鱗を見て、骨格を見て、傷の塞がり方を見て、何やら独り言を呟いている。
「うん、やはり肩甲骨の変形は固定されているね……」「魔力器官の暴走は収まっているが、容量そのものは維持されている……」「鱗の耐熱性も通常個体より高い……」
聞こえてくる言葉の半分以上は、誰にもよく分からなかった。
巨大なフレアリザード――いや、もはやそう呼ぶべきかすら怪しいその個体は、疲れたのか、戸惑っているのか、はたまた完全に呆れているのか、ロイドにされるがままになっていた。長い首を少し傾け、黄色味を帯びた瞳で彼を見下ろしている。敵意はない。ただ、何をされているのか理解できていないような、妙に達観した空気があった。
アルエが小声で言う。
「ねえ、あれ本当にさっきまで暴れてたの?」
リーリヤは肩をすくめた。
「少なくとも、今はロイドさんに付き合わされてるようにしか見えないわね」
マットは腕を組んだまま、巨体を見上げる。
先ほどまで暴走した魔力に身体を焼かれ、自分の力に振り回されていたその姿を見ているからこそ、今の静けさには妙な不思議さがあった。助かったことを理解しているのか、それともただ消耗しきっているだけなのか。どちらにせよ、あの目には戦意がない。
その時、ロイドが周囲の岩盤へ目を向けた。
床も壁も、ところどころが黒く焼け溶けている。炎で炙られただけではない。高熱に長時間晒され、岩そのものが粘土のように軟化してから再び固まったような跡だ。
ロイドはしばらくその光景を見渡し、やがてゆっくりと頷いた。
「結論が出たよ」
全員の視線が集まる。
「やはり、完全にフレアリザードとは別種だ」
彼は巨大な個体を見上げた。
「爬虫類系のモンスターがドラゴンへ進化する例は確認されている。ただ、普通はその過程はもっと段階的だし、ここまで明確に中間形態で固定されることは少ない」
ロイドは焼けた岩盤を軽く叩いた。
「この個体は、その途中状態で無理やり固定されたらしい。ドラゴンの亜種と呼んでも差し支えないだろうね」
アルエが眉を上げる。
「つまり、ドラゴンになり損ねたってこと?」
「言い方は悪いけど、だいたい合ってる」
ロイドは頷く。
「フレアリザードの延長線上にある存在でありながら、すでに通常種の枠は外れている。高熱、高魔力、高知能。そのすべてが中途半端に引き上げられている」
彼は少し考えるように間を置いた。
「名前を付けるなら……そうだな。マグマドレイク」
誰もすぐには口を開かなかった。
名前が与えられたことで、目の前の存在が急に“何か”として確定した気がしたからだ。ただの巨大なフレアリザードではない。薬で壊れ、暴走し、それでもなお生き残った一つの新しい種。
マットが口を開く。
「で、こいつどうするんだ?」
その問いに、ロイドは少しだけ表情を引き締めた。
「幸い、暴走している時に比べれば戦闘力はそこまで高くはない。いや、高いことは高いんだけどね」
苦笑しながら言葉を続ける。
「少なくとも、あの状態で無差別に炎を撒き散らしていた時ほど危険ではない。この街の冒険者であれば、万が一何か起きても討伐は可能だろう」
討伐。
その言葉に、マットはわずかに顔をしかめた。
その瞬間だった。
マグマドレイクがゆっくりと首を伸ばし、マットの顔をぺろりと舐めた。
熱かった。
だが火傷するほどではない。温められた鉄板の上を撫でられたような、妙に生々しい熱だった。
マットは瞬きをする。
アルエが目を丸くした。
「ねえ、その子、既に懐いてない?」
ロイドは顎に手を当てる。
「ドラゴン系統は、膨大な魔力量に加えて総じて知能も高い。この子も例外ではないだろう」
マットとマグマドレイクを交互に見て、彼は続けた。
「自分が助けられたということは、十分理解しているんじゃないかな」
リーリヤがすかさず口を挟む。
「でも、だめよ」
その声音には珍しく強い釘があった。
「これ以上パーティにモンスターを増やしたら、本当にどうなるか分からないんだから」
マットは「う」と小さく詰まる。
回復魔法によって維持されている、マットの歪な従魔契約。それが常識外れであることは、もう全員が十分理解していた。カーボ、ササミ、アミノ。この時点で既に普通ではないのだ。さらに一体加えたとして、本当に問題が起きないと誰が言い切れるのか。
ロイドもそこは軽く流さなかった。
「その通りだね」
「君の契約は回復魔法で無理やり成立している前提が強い。あと一体増えても維持できる保証はどこにもない。最悪の場合、既に結ばれている契約の均衡が崩れる可能性すらある」
リーリヤは腕を組んだまま頷く。
「そうなったら大変よ。カーボもササミもアミノも、今さら野に放てるような存在じゃないんだから」
視線を向ければ、その言葉の意味は一目で分かる。
カーボは少し離れた場所で丸くなり、岩陰に座ったアルエの足元へ身体を寄せていた。アルエはその背に半分もたれかかるようにして座り、完全に枕代わりにしている。
ササミはと言えば、どうやらこの辺りの岩に含まれる硫黄成分が気に入ったらしく、その辺の岩壁を嘴で砕いてはがりがりと食べていた。食事というより採掘である。
アミノはアミノで、舌をちろちろと出しながら、マグマドレイクの腕から肩、首元にかけてを自由に這い回っている。相手も特に嫌がる様子はない。
本当にその心配が必要なのかは、かなり疑問だった。
少なくとも今この空間だけを切り取れば、危険な異常個体を保護しているというより、妙な従魔同士が増えただけのようにも見える。
ロイドは咳払いを一つした。
「一旦、この個体の処遇も含めて、一度ギルドへ戻ろう」
彼は後ろを振り返る。
そこには、ササミが無理やり岩を削って作った巨大な風穴が真っ直ぐに続いていた。自然の洞窟には到底見えない、あまりにも豪快な直線通路だ。その向こうからは、明るい太陽の光が差し込んでいる。
「幸い、帰り道はササミさんが作ってくれたしね」
アルエが乾いた声で言う。
「作ってくれたっていうか、壊してきたっていうか」
マットはマグマドレイクへ視線を向けた。
「動けるか?」
その問いに応えるように、マグマドレイクはゆっくりと巨体を起こした。まだ完全ではないのだろう。動きには慎重さが残っている。それでも、自分の意志で立ち上がり、一歩を踏み出すところまで回復していた。
岩丘の調査は、思いもよらない成果をもたらした。
崩壊した研究所。
強制進化の痕跡。
そして、暴走状態から安定化した進化途中の新種。
こうして一行は、巨大な異形を引き連れて街へ戻ることになったのである。
その後、ギルドでの報告によって改めて判明したのは、この種が完全な新種であるというより、本来なら進化の過程で通り過ぎるはずの形態が固定化されたものだ、ということだった。
種族名は、ロイドの提案どおりマグマドレイク。
街の中へ置くわけにはいかなかったが、人に危害を加える様子がないことから、街外れの飼育場で面倒を見ることになった。昆虫が主食らしく、虫系のモンスターを見つけると驚くほど嬉々として捕食する。おかげで、害虫駆除役として飼育場の職員からは意外と評判が良いらしい。
もっとも、その報告を聞いたアルエはしばらくのあいだ、妙に複雑そうな顔をしていた。
「なんかもう……私たちの周りだけ、モンスターとの距離感がおかしい気がする」
リーリヤは静かに頷く。
「ええ」
「でも、今さらね」
その結論だけは、全員がすぐに共有できた。




