第89話 暴走進化体
岩丘の奥へ進むにつれ、空気の質が明らかに変わっていった。
焦げた石の匂いが漂っている。ほんのりと硫黄のような刺激臭も混じり、吸い込むたびに喉の奥がひりつく。岩肌のあちこちが黒く溶け、まるで内部から焼き焦がされたかのように変形していた。
リーリヤはゆっくりと歩みを止め、地面へ手をかざす。
「……やっぱりいる」
小さく呟いた声は、岩丘の静寂の中で妙に重く響いた。
マットは腕を組みながらその奥を見据える。
「さっき言ってた魔力か」
リーリヤは頷くが、その表情は決して落ち着いたものではなかった。
「強いわけじゃない。でも……不安定。魔力が流れてるというより、漏れてる感じ」
ロイドの目が細くなる。
「制御不能状態か」
その言葉を合図にしたかのように、岩丘の奥から低い音が響いた。
ぐ、ぐぐ……。
石が擦れるような、重い呼吸のような音だった。
次の瞬間、炎が噴き出す。
岩陰の奥から現れたそれを見た瞬間、アルエが息を呑んだ。
「……なによ、あれ」
巨大な影がゆっくりと身体を起こす。
それはフレアリザードだった。
だが、知っている姿とはまるで違う。
体長は五メートルを軽く超えている。四肢は異様に太く、筋肉は膨れ上がりすぎて皮膚を内側から押し裂きそうだった。鱗の隙間からは赤い光が滲み、まるで体内で炎が燃え続けているかのようだ。
背骨は不自然なほど隆起していた。
肩甲骨のあたりから骨が突き出し、まだ形になりきらない翼の骨格が歪に膨らんでいる。進化の途中で止められた証拠だった。
しかし何より異様なのは、その目だった。
焦点が定まっていない。
痛みに耐えるように細められ、時折大きく見開かれる。そのたびに体内の魔力が暴れ、周囲の空気が震えた。
炎が漏れる。
息とともに。
傷口から。
鱗の隙間から。
まるで身体そのものが壊れた炉のようだった。
ロイドが息を呑む。
「……ひどい」
その声には、研究者としての興奮よりも、むしろ純粋な嫌悪が混じっていた。
「魔力器官が完全に暴走している。体が処理できる量を遥かに超えた魔力を流し込まれたんだ」
フレアリザードは苦しそうに首を振る。
次の瞬間、口から炎が噴き出した。
轟音とともに、岩丘の空洞が赤く染まる。だがそれは狙い澄ましたブレスではなかった。顎はわずかに震え、喉の奥で魔力が引き裂かれるような音を立てている。まるで吐き出したくもない炎を無理やり吐かされているようだった。炎はまっすぐ放たれず、途中で歪み、揺れ、岩壁へぶつかって散っていく。制御を失った魔力がただ吐き出されているだけではない。痛みによって狙いそのものが定まらない、暴走した炎だった。
「うお、熱っ!」
マットは思わず顔をしかめながら前に出る。飛び散る炎を拳で払い、飛び込んできた火球を殴り飛ばす。
拳が炎に触れるたび、じゅっと焦げる音がする。
「熱い熱い熱い!」
それでもマットは退かない。魔法は効かないが、物理で吹き飛ばせないわけではない。拳で火球を弾き、腕で炎を払い、強引に前へ出る。
だが炎は止まらない。
暴走した魔力が次々と噴き出し、岩壁を溶かし始める。
「任せて!」
アルエが前へ出た。
掌を突き出す。
「フレイムバースト!」
爆発的な火炎が放たれる。フレアリザードの炎と正面から衝突し、空間の中央で巨大な火柱となってぶつかり合う。
炎と炎がぶつかり、空気が震えた。
アルエの魔力は圧倒的だった。
暴走した炎を真正面から押し返し、爆発的な熱量で相殺する。火炎がぶつかり合った瞬間、互いの魔力が打ち消し合い、火柱は粉々に弾け飛んだ。
「ちょっと、無茶苦茶よこいつ!」
しかしフレアリザードは止まらない。次の瞬間、再び炎が溢れ出す。
「リーリヤ!」
アルエが叫ぶ。
「分かってる!」
リーリヤは一歩前へ出て杖を振る。
空気が震える。
次の瞬間、細い水流が放たれた。
ウォーターカッター。
だが一本ではない。
二本。
三本。
四本。
幾重にも重ねられた水の刃が空間を走り、炎の魔法を切り裂いていく。
水流が炎を削り取り、熱を奪い、魔力を分断する。
巨大な火球は途中で切断され、蒸気となって空中で消えていった。
「これで少しはマシでしょ!」
リーリヤが叫ぶ。
それでもフレアリザードは苦しそうに身体をよじり、炎を噴き続ける。だがその動きは明らかに戦闘の動きではない。脚は踏み込みの形を取ろうとして途中で崩れ、尾は振り払うように振られるが途中で力が抜ける。身体のあちこちが痙攣するように震え、そのたびに鱗の隙間から炎が噴き出した。まるで自分の力に振り回され、どこをどう動かせばいいのか分からなくなっているようだった。
鱗の隙間から炎が漏れ、地面に落ちた火が岩を溶かしていた。
「ササミまだか!」
マットが叫ぶ。
その瞬間だった。
岩丘の奥から、凄まじい音が響いた。
ごごごごご……。
岩が砕ける。
壁が崩れる。
そして。
岩壁が内側から吹き飛んだ。
巨大な影が現れる。
ササミだった。
どうやら狭い岩丘の通路をそのまま通ることができず、道中の岩をすべて削りながら進んできたらしい。岩壁には新しく抉られた巨大な穴が一直線に続いている。
アルエが呆れた声を出した。
「ちょっと……道作ってきたの!?」
ササミは当然と言わんばかりに翼を広げる。
次の瞬間、フレアリザードの炎がササミへ向かって放たれた。
しかし。
炎は触れた瞬間、霧のようにほどけて消えた。
魔法無効。
マットはフレアリザードの姿を一瞬だけ見据えた。巨大な身体は戦おうとして動いているわけではない。膨れ上がった魔力に引きずられ、苦しみから逃れるように暴れているだけだった。鱗の隙間から炎が漏れ、脚は踏み込みの形を取ろうとして崩れている。
ほんの一瞬だけ、マットの眉が寄る。
「……ちくしょう」
次の瞬間、迷いを振り払うように拳を握る。
「よし、来た!」
マットは地面を蹴る。
岩が砕け、身体が一直線に突っ込む。
フレアリザードは反応が遅れた。巨大化した身体は魔力の暴走に引きずられ、動きが鈍っている。
衝突。
鈍い音が空洞に響く。
マットの腕が首を押さえ込む。
巨体が暴れた。
岩が砕け、砂煙が舞う。それでもマットは離さない。腕にかかる力は恐ろしいほどだったが、彼の筋肉はびくともしなかった。
「アミノ!」
呼ばれると同時に、細い影が飛び出した。
アミノは躊躇なくフレアリザードの身体へ巻きつく。首、胴、前脚へと絡みつき、鱗の隙間へ牙を差し込む。
その瞬間、空気が震えた。
赤い光が揺れる。
ロイドが目を見開く。
「魔力吸収……?」
フレアリザードの身体から、淡い光が煙のように抜けていく。
アミノの体内へ流れ込む。
暴れていた巨体の動きが、わずかに弱まった。
炎の漏出が減る。
呼吸が変わる。
「そうか……」
ロイドが呟く。
「毒吸収の応用だ。魔力を異物として処理している」
マットは押さえ込んだまま叫ぶ。
「今のうちだ!」
緑の光が広がる。
回復魔法。
裂けていた鱗が閉じていく。
焼けた筋肉が再生する。
魔力の暴走で崩れかけていた身体が、ゆっくりと修復されていく。
フレアリザードの抵抗がさらに弱まる。
暴れていた尾が止まる。
炎が消える。
やがて巨体が静かに地面へ伏した。
荒い呼吸だけが残る。
だが、先ほどのような暴走はもうない。
リーリヤがそっと近づいた。
「……落ち着いたみたい」
フレアリザードはゆっくりと目を開く。
その瞳は、先ほどよりもずっと穏やかだった。
ロイドが震える声で呟く。
「成功だ」
「強制進化の暴走を、止めた」
岩丘の風が静かに吹き抜ける。
その中心で、進化途中の巨大なモンスターは、ようやく静かな呼吸を取り戻していた。




