第87話 次の依頼
翌朝。
昨夜あれほど床で転がっていた男は、まるで何事もなかったかのように起き上がっていた。
窓から差し込む朝の光の中で、マットは大きく伸びをする。
筋肉痛は。
ない。
むしろ体は軽かった。
魔力が回復したとたん、自分に回復魔法をかけてしまったのだ。筋肉の損傷も疲労も綺麗に消え去り、体は完全に元通りになっていた。
いや。
正確には、元通りより少し強くなっているのだろう。
もっとも。
マットにとって筋力が増えることなど、もはや日常の出来事である。昨日より強いかどうかなど、本人ですら気にしていない。
それよりも重要なのは――。
「仕事だ」
マットはそう言って服を着る。
朝の空気はまだ少し冷たく、街はようやく動き始めたところだった。パン屋から漂う焼き立ての匂い。荷車を押す商人の声。宿の前の通りには、冒険者たちの姿もちらほら見える。
ロイドはすでに起きていた。
机の上には紙の束とインク壺。
夜のうちに何かを書き込んでいたらしい。
「昨夜の観察記録をまとめていたんだ」
そう言ってロイドは眼鏡を押し上げた。
「何の観察?」
アルエが聞く。
「魔力枯渇状態で筋トレする生物の生態だね」
リーリヤは無言で視線を逸らした。
マットは胸を張った。
「新しいトレーニング方法だ」
「研究対象だ」
ロイドが即座に言い直す。
アルエはため息をついた。
「ねえ、あんたたちってさ……」
「まあいいわ」
どうせ止めても無駄だと悟った顔だった。
やがて全員が準備を終え、一行は宿を出る。
朝のギルドはすでに活気に満ちていた。
扉を開けた瞬間、酒と木材と鉄の匂いが混ざった独特の空気が流れ込む。依頼掲示板の前では冒険者たちが紙を奪い合うように見つめ、受付では書類が山のように積み上がっている。
その奥。
大きな机の前で、グラハムが資料を読んでいた。
片手にはパン。
もう片方の手には依頼書の束。
「おう、朝からご苦労だな」
パンをかじりながらグラハムが顔を上げる。
「依頼はまだまだあるんだろ?」
マットがどこかわくわくした顔で聞く。
グラハムは少し笑った。
「せっかちだな。嫌いじゃないがな」
そう言って、グラハムは机の上の紙束から一枚を抜き取る。
そのまま、マットに手渡した。
だが、マットが依頼書に目を通す前に、グラハムは机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「その前に少し説明だ」
グラハムはパンを机に置くと、腕を組んだ。
「お前たちが遭遇してきた妙なモンスター。それにキマイラ。黒い狼」
そこで一度言葉を切る。
「それらを勘案して、俺個人の結論としては――強制進化薬」
「こいつは、もう相当な数が使われていると踏んでる」
部屋が一瞬静かになった。
誰もすぐには口を開かなかったが、ロイドだけが小さく頷いた。
「……うん。同意見だね」
グラハムはロイドを一瞥すると続ける。
「だがな。まだ証拠も犯人も目星はついていない。それが現状だ」
「だが――これを見ろ」
そう言って、グラハムは机の上に大きな地図を広げた。
古びた羊皮紙の地図。
そこには、いくつもの赤い印が打たれていた。
マットたちは自然と身を乗り出す。
「異常個体の発見例だ」
グラハムは指で印をなぞる。
「これを見て、どう思う」
ロイドがすぐに顔を寄せた。
眼鏡の奥の目が地図を走る。
「……分布が自然じゃないね」
「この街を中心に、広がっている」
アルエも覗き込みながら口を開いた。
「つまりさ」
「この街の近くで作ってるってこと?」
グラハムはニヤリと笑った。
「やはりそう見えるか」
「ギルドのおひざ元で大胆な輩が居たもんだ」
少しだけ間を置く。
「……だが、俺も同じ見立てだ」
リーリヤが腕を組む。
「灯台元暗し、ってことね」
グラハムは軽く鼻で笑った。
「言うじゃねえか」
「だが、嬢ちゃんの言う通りだ。絶対に警戒される場所ほど、逆に疑われない」
「在り得ないと思われる場所ほど、案外ばれないもんだ」
そう言って、グラハムは再び依頼書を指で叩いた。
「で――今回の依頼は、その赤印の一つだ」
マットはゆっくりと依頼書を持ち上げた。
その内容に目を通しながら、少しだけ笑う。
「ほう」
「面白そうだな」




