84話 ロイドの研究タイム
戦いの余韻が森に残っていた。
倒れた黒い狼。静かに取り囲むアルファホワイトウルフたち。マットの隣に並んだカーボの灰色の巨体。そして、その首元でわずかに揺れる一房の白い毛。
本来であれば、誰もが緊張した空気に包まれていてもおかしくない状況だった。
だが――。
一人だけ、別の意味で限界を迎えている男がいた。
ロイドである。
彼はここまで、ずっと我慢していた。
黒いホワイトウルフという謎の個体。
王の兆しを見せたカーボ。
さらに、その両者が同時に目の前に存在しているという異常な状況。
モンスター研究者として、これ以上ないほどの観察対象が目の前に転がっているのに、戦闘中だったため手を出すことができなかったのである。
限界だった。
「マット」
やけに落ち着いた声だった。しかし、そこには得体の知れない響きが混じっていた。
マットが振り向く。
「なんだ」
「その黒い個体、回復させてくれ」
一瞬、沈黙が落ちた。
アルエが眉をひそめる。
「……え?」
リーリヤが静かに眼鏡を押し上げる。
「ロイドさん、今、何て?」
ロイドは一歩、倒れた黒狼へ近づいた。目はすでに飢えた獣のそれに変わっている。
「調べたい」
あまりにもシンプルな理由だった。
「黒いホワイトウルフなど前例がない。突然変異か、異常進化か、外部要因か、あるいは新種の可能性すらある。ここで調べないという選択肢は存在しない」
「いや普通に危ないでしょ」
アルエがツッコミを入れる。
ロイドは振り向きもしない。
「マット」
「ん?」
「回復魔法」
「お、おう」
迷いがなかった。
マットは倒れた黒狼の前へ歩き、手の平を掲げる。
拳が黒狼の体に触れた瞬間、柔らかな光が広がる。
次の瞬間、黒狼の体がびくりと跳ねた。
呼吸が戻る。
折れていた前脚がゆっくりと力を取り戻し、巨大な体がわずかに動いた。
そして。
ロイドが動いた。
「素晴らしい……!」
黒狼の顔のすぐ前までしゃがみ込む。
通常であれば危険極まりない距離だが、ロイドはまるで気にしていない。
彼はどこからか巻尺を取り出した。
「牙の長さを測らせてくれ」
黒狼が低く唸る。
ロイドは真顔で頷いた。
「うむ、嫌がる気持ちはわかる。しかし非常に重要なデータだ」
巻尺を牙に当てる。
「……九・二。キングホワイトウルフ平均よりわずかに長い」
アルエが呆然とする。
「測ってる……」
リーリヤが静かに言う。
「測ってるね」
ロイドはすでに独り言の世界に入っていた。
「体格はキングホワイトウルフ級……いや、むしろ僅かに大きい。毛並みは完全な黒ではないな。光の当たり方で紫が混じる。これはダークウルフの色素系とは異なるし、骨格は完全にホワイトウルフだ……」
彼は黒狼の周囲をぐるぐる歩き回る。
時々ノートに猛烈な勢いで書き込む。
「耳の角度、尾の太さ、肩幅……素晴らしい」
黒狼は完全に困惑していた。
威嚇するタイミングを失っている。
ロイドは次にカーボへ振り向いた。
「カーボさん! 少しだけ静止してくれ!」
カーボの耳がぴくりと動く。
ロイドはすでに彼の首元の毛を観察していた。
「やはりそうだ……!」
興奮した声が森に響く。
「毛色が変化している。灰色のトーンが落ちている。体格も戦闘前より明らかに大きい……進化だ。だが完全な王個体の特性じゃない」
彼は白い毛を指差した。
「これだ」
誰も何も言わない。
ロイドは続ける。
「ホワイトウルフの王にのみ現れる特徴。つまりカーボは王の進化条件を満たしていた。しかし群れを選ばなかったため、完全なキングホワイトウルフにはならなかった」
彼の目が輝く。
「つまりこれは完全な別系統の進化だ!」
アルエが頭を抱えた。
「うるさい……」
だがロイドは止まらない。
彼は再び黒狼の方へ戻る。
「では君はどうだ?」
黒狼は起き上がり、ロイドを見下ろしている。
普通なら威圧で動けなくなる距離だった。
ロイドは全く気にしていない。
彼は毛を一房つまむ。
「一本だけ貰っていいか?」
ブチッ。
毛が抜けた。
黒狼が固まる。
ロイドは満足そうに頷いた。
「サンプル確保」
アルエが顔を覆う。
「ほんとに、何考えてるのこいつ……」
ロイドはさらに黒狼の周囲を回り込み、地面を見た。
「足跡の深さ……体重推定……なるほど」
次の瞬間、彼の目が細くなる。
「これは……」
空気が変わった。
ロイドは黒狼の毛並みの奥をかき分ける。
「やはりそうか」
マットが聞く。
「なんだ?」
ロイドは黒狼の体を軽く叩いた。
「進化の痕跡がある」
リーリヤが眉を上げる。
「キングなんだから当たり前じゃないの?」
ロイドはゆっくり首を振った。
「何か外部要因が介入している。強制的な進化……あるいは薬物的なものだ」
森が静まり返る。
黒狼が低く息を吐く。
カーボがそれを見つめる。
だがその緊張した空気の中心で。
ロイドは――。
「素晴らしい……!」
目を輝かせていた。
「これはとんでもない発見だ!」
アルエが呆れた声を出す。
「いや、ほんとに、なんなの」
彼女は周囲を指差した。
アルファホワイトウルフの群れ。
キング級のカーボ。
謎の黒い個体。
普通なら震える状況である。
ロイドだけが違った。
「マット」
「なんだ」
「しばらくここに滞在しよう」
マットが頷く。
「いいぞ」
リーリヤがため息をついた。
アルエは空を見上げる。「もうヤダ」
そしてアルファホワイトウルフたちは――。
アルエの呟きに答えるように、短く鳴いた。
二匹のキング級モンスターですら、ロイドの研究熱には口を挟めなかったのである。




