82話 黒き王との決闘 【挿絵付き】
岩山の上に現れた黒い影は、ゆっくりとこちらを見下ろしていた。
最初に目についたのは、その毛並みだった。
黒。
だが、ただ黒いだけではない。陽光を受けるたびに、どこか青みを帯びた鈍い光沢が浮かび上がる。墨を流したような深い色の奥に、金属のような硬質さすら感じさせる毛並みだった。体格も、普通のホワイトウルフとは比べものにならない。アルファホワイトウルフよりもさらにひと回り大きく、肩から背にかけて盛り上がった筋肉は、まるで岩そのものが獣の形をとっているようだった。
黒いホワイトウルフ。
だが、それを単なる変異個体と呼ぶには、その存在感はあまりにも異質だった。
「……来る」
ロイドが低く言う。
黒い狼は、岩山の縁から無音で飛び降りた。
着地の衝撃で土が舞い、周囲の草が円を描くように揺れる。そのまま一歩、また一歩と歩き出す。慌てる様子はまるでない。むしろ、自分がこの場を支配していることを疑ってすらいない歩き方だった。
カーボが低く唸る。
対するように、黒い狼も喉を鳴らした。
だが、その瞬間だった。
周囲の岩陰、草むら、そして丘の向こうから、新たな気配が一斉に現れる。
白。
純白の毛並みを持つ大型個体たち。
一匹ではない。
二匹、三匹――いや、それ以上。
普通のホワイトウルフより明らかに大きい。
筋肉の乗り方も、目の鋭さも、先ほど戦った個体とは段違いだった。
「アルファ……?」
リーリヤが息を呑む。
いつの間にか、アルファホワイトウルフたちが円を描くように周囲を取り囲んでいた。だが不思議なことに、どの個体も飛びかかってこない。ただ静かに、この場の成り行きを見守っている。
「どういうこと?」
リーリヤが戸惑ったように言う。
ロイドは目を細め、周囲の配置を見渡した。
「……なるほど」
彼の声には納得が混じっていた。
「ウルフ系のモンスターは、ボス同士が出会うと縄張り争いをするんだ」
「群れを賭けて?」
アルエが問い返す。
ロイドは頷く。
「そう。ボスが負ければ、その群れは勝った側へ吸収される」
そして黒い狼を見た。
「あれは、この一帯の群れを束ねるボスだ」
「まさしく、キングだね」
リーリヤの表情が一気に強張る。
「言ってる場合?」
「じゃあ、カーボが戦って負けたら、私たちどうなるのよ」
ロイドは答えに詰まる。
その代わりに口を開いたのは、マットだった。
「大丈夫だ」
迷いのない声だった。
マットはそう言うと、ゆっくりとその場へ腰を下ろした。まるで稽古の観客席にでも座るような自然さだった。
「カーボなら勝てる」
リーリヤが思わず振り返る。
「そんな簡単に……」
「簡単じゃない」
マットは静かに言った。
「でも、勝てる」
そしてカーボを見る。
「俺たちは、カーボを信じればいい。そうだろ?」
カーボは振り返らなかった。
だが、短くひとつ吠える。
その声は、はっきりと肯定だった。
そして灰色の狼は、ゆっくりと前へ進み出る。
黒い王の前へ。
草を踏む音。
岩に爪が触れる乾いた音。
どちらともなく、遠吠えが始まった。
低く、長く、腹の底から絞り出すような咆哮が岩山に反響する。白と黒、二匹の狼の声が重なり、ぶつかり合い、空気そのものを震わせた。周囲のアルファたちは、その声に応えるようにじっと身を低くする。
そして。
遠吠えが止んだ。
静寂。
草原を吹き抜ける風の音すら、どこか遠く感じられるほどの張り詰めた沈黙。
次の瞬間。
二匹は同時に地面を蹴った。
爆ぜるような音とともに、白と黒の影がぶつかる。
牙。
爪。
筋肉。
純粋な肉体だけで叩き合う一撃は、周囲の地面を大きく抉った。衝突の余波だけで土が跳ね、細かな石が周囲へ散る。カーボの牙が黒い狼の首元を狙い、黒い狼の爪がカーボの肩を裂こうとする。だが互いに紙一重で外し、そのまま体勢を崩さず距離を取る。
速い。
普通の人間の目では追い切れない速度だった。
「速すぎる……」
アルエが呟く。
ロイドも目を見開いたまま、かろうじて視線で追っている。
「これがアルファ……いや、キングクラスの戦いか」
二匹は再び衝突する。
今度は岩肌を使った立体的な動きだった。
黒い狼が斜面を蹴る。ほとんど垂直に近い岩面を駆け上がり、その反動で空中から飛びかかる。カーボは真正面から受けず、横へ滑るように回避する。そのまま自分も岩の突起を蹴り、斜め上から黒い狼の脇腹へ体当たりを叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
岩肌が砕け、細かな破片が滝のように落ちる。
黒い狼はそのまま転落するかに見えたが、空中で体を捻り、別の岩棚へ着地した。爪が岩を削り、火花のように石片が散る。次の瞬間には、もう反撃に転じている。
噛みつき。
踏み込み。
跳躍。
どちらも一撃で相手を殺せるだけの力を持っている。
そのぶつかり合いが、草原と岩山の境界一帯をまるごと戦場へ変えていた。
カーボが低く唸る。
黒い狼も応じるように牙を剥く。
その目は、明らかに普通のモンスターのそれではなかった。獣の本能だけではなく、戦いの流れそのものを読んでいる知性がある。
「おかしい」
ロイドが思わず漏らした。
「何が?」
リーリヤが問う。
「強さだけじゃない」
ロイドは黒い狼から目を離さず言う。
「戦い方が洗練されすぎている。あれは、ただのキングじゃない」
その時だった。
黒い狼の口元が赤く光る。
熱。
次の瞬間、炎が吐き出された。
「なっ……!」
ロイドが息を呑む。
黒い火炎が一直線に走る。
火炎魔法。
ウルフ系のモンスターが口から炎を吐いた事実に、一行の表情が一斉に変わった。
「火まで使うの!?」
アルエが叫ぶ。
だが、カーボは怯まない。
真正面から火炎へ突っ込んだ。
白い毛並みが炎に呑まれる。
リーリヤが息を呑む。
だが次の瞬間、炎の向こうから飛び出したカーボの姿を見て、アルエが思わず笑った。
「そっか」
ロイドもすぐに理解する。
「火炎耐性……!」
アルエとの戦闘訓練。
普段から散々、火炎魔法を浴びてきたカーボにとって、この程度の火炎はもはや初見殺しにはならない。熱に顔をしかめることはあっても、動きは止まらない。
むしろ、そのまま加速する。
炎を突き破った勢いのまま、カーボの体当たりが黒い狼の肩へ直撃した。
重い音。
黒い狼が大きくたたらを踏む。
だが、それでも倒れない。
すぐさま後ろ足で踏ん張り、振り向きざまに爪を振るう。カーボはそれを首を低くして避けるが、頬の毛が数本散った。
一進一退。
互いに有効打を与えながら、決定打には届かない。
二匹は岩棚から岩棚へ飛び移り、地面を抉り、草を焼き払いながら戦い続けた。衝撃のたびに周囲の地形が少しずつ変わっていく。岩が砕け、土が崩れ、小さな窪地がさらに深く抉られていく。
「……すごい」
リーリヤは呆然と呟いた。
「ここまで来ると、もう普通のモンスターの戦いじゃないわね」
「うん」
ロイドも頷く。
「王同士の戦いだ」
その言葉に、マットだけが静かに笑っていた。
強い。
速い。
そして重い。
それでも、彼の目には不安ではなく期待が宿っている。
カーボなら勝てる。
その確信は揺らがない。
やがて黒い狼が再び炎を吐く。
だが今度はフェイントだった。炎で視界を遮り、自身は岩山の側面を大きく迂回する。上。
頭上からの強襲。
鋭い牙がカーボの首元へ迫る。
だが、カーボはそれを読んでいた。
瞬間、身を沈める。
黒い狼の噛みつきは空を切り、そのまま体勢がわずかに流れた。
そこへ。
カーボの肩が突き上がる。
さらに、下から食い込むような噛みつき。
黒い狼の前脚へ牙が深く食い込んだ。
初めて、はっきりとした悲鳴が上がる。
「入った!」
アルエが声を上げる。
だが黒い狼も執念深かった。
痛みをものともせず、捻るように体を回す。カーボは噛みついたまま引きずられ、岩肌へ叩きつけられる。鈍い衝撃。今度はカーボの口元から血が散った。
互いに満身創痍。
呼吸は荒く、肩が大きく上下している。
それでも、どちらも目を逸らさない。
周囲のアルファホワイトウルフたちは、ただ黙って見ていた。
加勢はしない。
ただ、勝敗だけを見届けるつもりなのだと分かる。
そして最後の激突が始まった。
黒い狼が吠える。
炎が口元へ集まる。
対するカーボは、低く身を沈めた。
「……行け」
マットが小さく呟く。
黒い炎が吐き出される。
それと同時に、カーボが地面を蹴った。
真正面。
炎へ飛び込む。
毛並みが焼ける。
熱で視界が揺らぐ。
それでも止まらない。
そのまま、黒い狼の懐へ潜り込むと、全身の勢いを乗せた体当たりを叩き込んだ。
衝突音が、雷鳴のように響いた。
黒い狼の巨体が岩肌へ激突する。
岩が砕ける。
亀裂が走る。
そして。
カーボはもう一歩踏み込んだ。
牙を突きつける。
黒い狼の喉元へ。
静寂。
黒い狼は荒い息を吐きながら、ゆっくりと視線を上げた。
胸が大きく上下する。
呼吸のたび、焦げた毛並みの隙間から赤い傷口がわずかに覗く。戦いの間に積み重なった衝撃が、ようやく身体に届き始めたのだろう。
それでも、黒い狼はまだ立っていた。
王としての矜持が、その巨体をかろうじて支えているようだった。
カーボもまた、動かない。
灰色の狼は低く身構えたまま、ただ相手を見据えている。呼吸は荒く、肩の毛並みは血で濡れている。それでも一歩も退かない。
二匹の視線がぶつかる。
風が吹く。
焦げた草がざわりと揺れた。
その瞬間だった。
黒い狼の後脚が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬。
だが、その重心の崩れをカーボは見逃さなかった。
灰色の影が前へ踏み込む。
最後の一歩。
牙が、静かに黒い狼の喉元へ突きつけられた。
逃げ場はない。
黒い狼はしばらくその牙を見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
そして――。
身体から力が抜けた。
前脚が折れ、巨体が地面へと沈む。
土煙が静かに舞い上がる。
黒い狼は伏したまま、もう立ち上がろうとはしなかった。
勝敗は、誰の目にも明らかだった。
「……勝った」
リーリヤが息を吐くように言う。
アルエが思わず拳を握る。
「やった……!」
ロイドは目を細めたまま、ただ一言だけ漏らした。
「辛勝、だね」
確かにその通りだった。
カーボもまた、無傷ではない。肩で息をし、毛並みのあちこちが焦げ、血が滲んでいる。それでも立っていた。
灰色の狼は、勝者としてそこに立っている。
周囲のアルファホワイトウルフたちが、一斉に頭を垂れた。
風が吹く。
焦げた草の匂いと、血の匂いが混ざる。
そして、その中央で。
カーボは静かに吠えた。
短く、しかし力強い声だった。
王の勝利を告げる声。
その響きは、岩山にも草原にも、そしてマットたちの胸にも深く残った。




