77話 豪将グラハム
ロイドの説明は決して短くはなかったが、グラハムは途中で口を挟むこともなく、腕を組んだまま黙って聞いていた。
強制進化薬の存在。
アーデンで起きた出来事。
各地で報告され始めているモンスターの異常な活性化。
話が一通り終わる頃には、部屋の空気は先ほどまでよりもずっと重くなっていた。窓のない岩の部屋は静まり返り、遠くのギルドホールの喧騒だけがかすかに響いてくる。
しかし、その沈黙を破ったのはグラハムだった。
「よし」
低く言うと、彼は机の横に置かれていた鐘を鳴らした。
すぐに扉が開き、職員が一人入ってくる。
「各地への連絡を出せ。アーデンへの支援は優先対応だ。素材調達と冒険者の派遣も手配しろ」
「それから研究部門にも話を回せ。進化薬の件は全記録を洗い直させろ」
職員は即座に頷き、書き留める。
「承知しました」
それだけ言うと、慌ただしく部屋を出て行った。
グラハムは椅子の背もたれへ体を預け、大きく息を吐く。
「よし。こっちの方は任せておけ」
その声音には、長年この都市の中枢を預かってきた男の自信があった。
しかし次の瞬間、彼の眉がわずかに寄る。
「問題は強制進化薬の方だな」
指先で机を軽く叩きながら、低く呟く。
「行き先も目的も不明。しかも最近は各地でモンスターの活性化や妙な進化の報告が増えてきてやがる」
「……嫌な予感しかしねぇな」
言葉だけ聞けば深刻な状況だった。
だが、不思議なことに。
グラハムの口元はわずかに持ち上がっていた。
それに最初に気付いたのはアルエだった。
「……もしかして笑ってるの?」
呆れたような声だった。
グラハムは一瞬きょとんとした顔をし、次の瞬間、豪快に笑った。
「おう」
「大変な時こそ笑うんだよ」
椅子に深く腰掛けたまま、腕を組む。
「それこそが人生を楽しむコツだぞ」
マットはその言葉を聞きながら、どこか嬉しそうに頷いていた。
するとグラハムの視線がそのマットへ向く。
「ところで、坊主」
少し間を置き、口の端を吊り上げた。
「いや、マットと言ったか」
マットは真っ直ぐに頷く。
「お前さん、力には自信がある口だろ?」
その問いに、マットは迷うことなくコクリと頷いた。
グラハムは満足そうに笑う。
「いい返事だ」
そして次の瞬間、信じられない言葉を口にした。
「よし、腕相撲だ」
「は?」
リーリヤの口から、思わず素っ頓狂な声が飛び出した。
だがマットの反応は違った。
その目は、まるで宝物でも見つけたかのように輝いている。
「勿論!」
即答だった。
グラハムは大きく頷く。
「決まりだ」
そして立ち上がると、部屋の隅へ歩いていった。
そこには鋼鉄の塊のような机が置かれている。普通の人間なら数人がかりでも動かせないほどの重量の塊だった。
しかしグラハムは、それをまるで木箱でも持ち上げるかのように軽々と担ぎ上げる。
リーリヤとアルエが同時に息を呑んだ。
鈍い音を立てて、それが部屋の中央へ置かれる。
「構えろ」
マットは嬉しそうに机の前へ座る。
二人は向かい合い、肘を机へ置いた。
太い腕と、鍛え上げられた少年の腕。
手が握られる。
「お前から来い」
その言葉が合図だった。
マットは腕だけで押したわけではなかった。肩、背中、腰、そして地面を踏みしめる脚に至るまで、全身の筋肉を連動させて力を一点へ集めていく。村の洞窟ジムで何度も繰り返してきた動きだった。呼吸を整え、体の芯を締め、全力を込めて押し込む。
しかし、その力を真正面から受け止めているグラハムの腕は、まるで岩盤のように動かなかった。ほんのわずかな揺らぎすらない。手のひら越しに伝わる感触は、生き物の腕というより巨大な岩柱を押しているようだった。
その瞬間、マットの脳裏に浮かんだのは、かつてオーガと組み合ったときの感覚だった。あの巨体の怪物の腕は確かに重かった。だが、目の前のグラハムの腕は、それすらも越えている。圧倒的な重量感と、揺るがぬ芯の強さがそこにあった。
だが、その事実にマットは怯えなかった。むしろ、自然と口元に笑みが浮かぶ。
その表情を見て、グラハムの口元もゆっくりと吊り上がった。
「お前、まだ先があるだろ」
低く、しかし楽しそうに言う。
「見せてみろ。お前の全力を」
その言葉に応えるように、マットは大きく息を吸い込んだ。そして迷いなく叫ぶ。
「アミノ!」
次の瞬間、白い影がするりと腕へ巻き付いた。アミノだった。生体装備のようにマットの腕へ密着した瞬間、空気が弾けるような音が響く。
バチバチと電撃が走った。
雷が腕を包み込み、筋肉の繊維がさらに膨れ上がっていく。
「おうおうおう!」
グラハムは腹の底から笑った。
「面白え! 面白えぞマット!」
その瞬間、ほんのわずかだが――グラハムの腕が傾いた。
「うおおおおおおおお!」
マットの叫びとともに雷の出力がさらに増していく。電撃だけではない。腕の奥から淡い光が漏れ、回復魔法が同時に作用していた。筋肉を酷使し、壊し、即座に修復する。破壊と再生が高速で循環しながら、力だけが際限なく増幅されていく。
グラハムはその電撃をまともに浴びながらも腕を引かなかった。それどころか、雷に照らされた顔にはますます楽しげな笑みが浮かんでいく。
「いいぞ!」
低く唸るように言った。
「どんどん力が増してやがるな。常に限界を越えてやがる!」
だが、その瞬間だった。
グラハムの腕の筋肉が、さらに膨れ上がった。丸太のようだった腕が、岩の柱のような太さへ変わり、空気そのものが重く沈む。
「だがな――」
低く、腹の底から響く声。
「まだまだ若い奴には負けん!」
その一喝と同時に、爆音が部屋に響いた。
次の瞬間、マットの腕は鋼鉄の机へ叩きつけられていた。鈍い衝撃が空気を震わせ、部屋全体がびりびりと揺れる。
しかしマットは、痛みに顔をしかめながらもどこか嬉しそうだった。
「すげぇ……!」
心の底から出た声だった。
それを聞いたグラハムは腕を組み直し、豪快に笑い声を上げる。
「はっはっは!」
「いいじゃねぇか坊主!」
そう言うと親指で自分の胸を指した。
「気に入った。もっと強くなりたきゃ、また来い。相手してやる」
その言葉は挑戦であり、同時にこの街の流儀による歓迎でもあった。
その光景を少し離れた場所で見ていたリーリヤが、深いため息をつく。
「……男って何歳になってもこんな調子なの?」
リーリヤは深いため息をつきながら呟いた。目の前では、腕相撲を終えたばかりの二人がまだ妙に楽しそうに笑っている。
ロイドが肩をすくめる。
「みんながみんなそうじゃないよ。僕は違うだろ?」
だがその言葉に、リーリヤはじっとりとした視線を向けた。
「あなたは別方向で似たようなものよ」
「え?」
ロイドは本気で驚いた顔をする。
「僕はかなり理性的な部類だと思うんだけど」
「ササミの羽に頬ずりして、顔中傷だらけにしてた人が?」
リーリヤの容赦ない指摘に、ロイドは言葉に詰まる。
アルエが腕を組みながらうんうんと頷いた。
「確かに。この前はカーボの口に頭突っ込んでたし」
「あれは、虫歯がないかの検査で……」
「あーあ」
リーリヤは天井を仰いだ。
「もっと爽やかなイケメンの冒険者っていないのかしら」
その言葉にアルエが少し考え込む。
「爽やか……」
しばらく沈黙してから、ぽつりと呟いた。
「リーリヤ、あたしね。最近気づいたんだ」
「なによ」
「絵本に出てきた勇者様は、所詮絵本なんだって」
リーリヤが嫌な予感のする顔をする。
アルエは肩をすくめながら、腕相撲の余韻でまだ楽しそうに話している二人の男を見る。
「現実の冒険者ってさ」
「大体こんな感じだよね」
ちょうどそのタイミングで、マットが興奮した声を上げた。
「もう一回だ!」
「おう、いいぞ!」
グラハムが豪快に笑う。
リーリヤは目を閉じた。
アルエは遠い目をした。
「ほらね」
アルエは小さくため息をついた。
「冒険者なんて、変人ばっかりなんだよ」
冒険者の頂点ともいえるギルド総本部のギルドマスター。
そしてその相手を嬉々として務める少年。
少女二人の儚い夢は、そのむさくるしい現実によって、あっけなく打ち砕かれていた。




