第72話 次なる旅路
地下洞窟での戦いから数日が過ぎても、アーデンの街は落ち着きを取り戻したとは言い難かった。
キマイラの死骸は既に回収され、洞窟の奥で発見された広大な地下空間も、現在はギルドと街の警備隊によって厳重に封鎖されている。それでも街の人々の間には、鉱山で何かとんでもないことが起きていたらしいという噂が静かに広がり続けていた。魔物の異常活性、謎の地下施設、そして空を飛ぶ怪物。どれも事実ではあるのだが、その全貌を知る者はほんの一握りしかいない。
マットたちはその数少ない当事者の一員だった。
洞窟の調査は、戦闘の翌日から本格的に始まった。まず行われたのはキマイラの死骸の検分である。あれほど激しく暴れ回った怪物だったが、ササミとマットの一撃によって体内の魔力回路は完全に焼き切られており、再生や暴走の兆候は見られなかった。ロイドを中心に街の研究者たちが何度も測定を繰り返し、危険性がないことを確認してからようやく解体作業が始まったほどである。
しかし、肝心の地下施設については、思ったほどの成果は得られなかった。
洞窟の奥に広がっていた空間には、確かに人の手が入った形跡があった。粗末ではあるが研究机と思しき台、薬品の瓶を並べていた棚の跡、床に刻まれた魔法陣の痕跡。さらには大型の檻のような構造物まで見つかり、ここでモンスターに何らかの実験が行われていたことはほぼ確実と見られていた。
だが、それ以上の証拠は驚くほど綺麗に消えていた。
書類や研究記録の類は一切残されておらず、薬品の容器もほとんどが空の状態で持ち去られている。残されていたのは、ほんのわずかに床へ染み込んでいた薬液と、割れた小瓶の欠片だけだった。
街の研究者たちはそれでも諦めず、その残留物質を丁寧に回収して分析を行った。そして数日後、ひとつの結論が示される。
それは、モンスターを人為的に進化させる研究が行われていた可能性が極めて高い、というものだった。
アーデンの研究者の一人が言った言葉を、マットはよく覚えている。
「通常の進化とは違う。あれは、無理やり段階を飛び越えさせている」
自然界でモンスターが進化するには、長い時間と膨大な魔力、そして環境条件が必要になる。しかし地下で見つかった薬品の痕跡は、その過程を強引に短縮し、外部からの刺激で進化を誘発するような性質を持っていた。
その結果が、あのキマイラだったのだろう。
異なるモンスターの部位を継ぎ合わせ、さらに薬剤によって進化を促す。自然界ではまず成立しないような存在を、無理やり作り出す実験。
だが、その研究を誰が行っていたのか。
その目的は何だったのか。
その答えは、結局見つからなかった。
証拠は丁寧に持ち去られ、研究者の痕跡もほとんど残っていない。まるで最初からここに誰もいなかったかのように、地下空間は空虚だった。
この結果に最も頭を抱えたのは、言うまでもなくイレーヌである。
もともとアーデンは、鉱山の移転問題だけでも十分に大きな案件を抱えていた。そこへ今回の地下鉱床の発見、未知の研究施設、そして人工的な進化薬の存在まで加わったのである。問題は一つでも厄介なのに、それがいくつも重なってしまえば、街の管理者としての負担は想像を絶するものだった。
実際、ギルドで顔を合わせた時の彼女は、誰が見ても限界寸前だった。
目の下の隈は、初めて会った時の倍以上に濃くなり、頬も少しだけ痩けている。それでも服装や髪型はきっちり整えているのだから、ある意味では大した精神力だと言えるのだろう。
マットは思わず回復魔法をかけてしまった。
彼女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに小さく息を吐き、「ありがとう」とだけ言った。
そんな状況とは対照的に、ロイドは完全に別の意味で忙しくしていた。
理由はもちろん、ササミである。
進化したササミは、街の研究者たちにとってまさに宝の山だった。
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ササミ
種族:ミスリルイグナイト レベル:40
生命力:256 魔力量:232
筋力:196 耐久:331
敏捷:188 器用:94
精神:183
特性
・鉱石選別
・金属蓄積
・希少金属吸収
・魔力遮断
・魔力蓄積
固有技能
・金属砕き
・魔断爪
・嘴強化
・採掘加速
・飛行
称号
・蒼銀の翼
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ミスリルイグナイト。
それが、ササミの新たな種族名だった。
このモンスターは極めて希少であり、鉱山などに生息するメタルイグナイトが大量のミスリルを摂取した場合に、ごく稀に進化するとされる上位種である。だが、その条件は非常に厳しい。
メタルイグナイトは本来、縄張り争いをほとんど行わない温厚なモンスターだが、それでも鉱山では他の鉱石系モンスターと資源を巡って衝突することが多い。さらにミスリルは希少鉱石であり、長期間にわたって摂取できる環境自体が限られている。
つまり、争いに負けない強さと、ミスリルを摂取できる幸運な環境、その両方が揃って初めて成立する進化だった。
自然界ではほとんど確認されない理由もそこにある。
そしてササミの体は、今やその希少金属ミスリルが全身へ浸透し、生体金属のような構造へ変化していた。羽毛の一本一本が金属光沢を持ち、魔力干渉を遮断し、さらには増幅する特性まで備えている。
研究者が夢中になるのも無理はなかった。
ロイドはほぼ毎日のようにササミを観察し、その翼の構造や魔力の流れを調べ続けている。ササミ自身はというと、特に嫌がる様子もなく、むしろ少し誇らしげに翼を広げてみせることさえあった。
アミノの方もまた、同様に研究対象として注目を浴びていた。
共生強化という特性は、単なる能力強化ではなく、他のモンスターや人間と組み合わさることで初めて真価を発揮する。その仕組みはまだ解明されていない部分が多く、研究者たちは興味津々だった。
そんな騒動の処理が落ち着くまで、マットたちは結局一週間ほどアーデンに滞在することになった。
そして一週間後。
ギルドから呼び出しがかかった。
久しぶりに訪れたギルドの応接室で、マットたちは再びイレーヌと向き合っていた。
彼女の顔色はまだ優れないが、それでも表情には以前よりわずかに余裕が戻っている。
「まず、今回の件については改めて礼を言うわ」
イレーヌはそう言ってから、小さく頭を下げた。
「あなたたちがいなかったら、街はもっと大変なことになっていたでしょうね」
その言葉の後、彼女は机の上から一通の封書を取り出した。
「本題に入るわ。あなたたちに頼みたいことがあるの」
マットたちは顔を見合わせる。
イレーヌは封書を指先で軽く叩きながら続けた。
「ギルドの総本部、カタリナへ向かってほしいのよ」
カタリナ。
冒険者ギルドの総本部がある都市の名前だった。
「この件は、アーデンの中だけで処理できる規模じゃない。地下鉱床、人工進化薬、キマイラ……どれも一つだけでも厄介なのに、全部が繋がっている可能性がある」
彼女はため息をつく。
「だから総本部長へ直接打診する必要があるのよ。本来なら私が行くべきなんだけど……」
言葉の続きを、マットたちは聞かなくても分かった。
今のアーデンを離れられる状況ではない。
「あなたたちの実力は十分に見たわ。その強さは私が保証する」
イレーヌはそう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「それと、ゲラングの意見も一理あるわね。だから今回、特例としてあなたたちを私の名のもとに預かりのCランクとして認定するわ」
アルエが目を丸くする。
「え、いきなり?」
「総本部に入るには、それなりの格が必要なのよ。Cランクくらいはないと門前払いされるわ」
そう言って、イレーヌは封書をマットへ差し出した。
「総本部長宛ての書状よ。これを届けて」
封書は意外なほど重かった。
それは単なる紙の重さではない。
この街の問題と、これから先に待っているかもしれない騒動の重さだった。
マットはゆっくりと頷く。
「分かりました」
その答えを聞いて、イレーヌはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「助かるわ」
こうして。
マットたちの次の目的地は決まった。
冒険者ギルド総本部、カタリナ。
新たな旅路が、静かに始まろうとしていた。
これにてアーデン編終了です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
引き続き物語は続きますので、ブックマークでお待ちください




