第71話 蒼銀の一撃
地下洞窟に、重く張り詰めた沈黙が降りていた。
キマイラは低く喉を鳴らしながら、ゆっくりと体勢を整えている。無理やり継ぎ合わされた肉と甲殻、異形の翼、尾の先に生えた新たな頭部。そのどれもが不自然だったが、それでもなお、この怪物は戦いを続けるだけの力を保っていた。黄色い瞳はぎらついた殺意を失っておらず、今この瞬間にも、次に誰を殺すかを選んでいるように見える。
その正面で、ササミが翼を広げて立っていた。
先ほどまでのロックスイーパーの姿は、もはやそこにはない。蒼銀の巨鳥となったその姿は、地下鉱床の淡い青い光を受けて、神々しいほどに静かな輝きを帯びている。金属のように硬質でありながら、生物としてのしなやかさも失っていない翼。以前よりもはるかに大きくなった体躯。鋭く研ぎ澄まされた嘴と爪。そのすべてが、今ここで新たな段階に到達したことを示していた。
キマイラが唸る。
ササミは、応えるように低く鳴いた。
睨み合いだった。
洞窟の奥に流れる風は冷たいはずなのに、その場だけは妙に熱を帯びている。アルエもリーリヤも、さきほどまで息を切らしていたことを忘れたように、その二体を見つめていた。ロイドは興奮と驚愕と観察欲をないまぜにした顔で何かを言いかけたが、結局その声は喉の奥で飲み込まれた。今は、何を言っても邪魔になる。それくらいの気配が、この場にはあった。
やがて。
キマイラが先に動いた。
異形の翼が大きくはためき、その巨体が再び宙へと舞い上がる。黒い蝙蝠の翼と白い鳥の翼、その不格好な一対は本来ならば均衡を保てないはずなのに、無理やり生み出された異質な力で空を裂き、獲物へ向かって加速していく。
その進路を見極めるように、カーボが横へ滑り込んだ。
蒼銀の巨鳥の横に、黒い魔狼が並び立つ。
カーボは一度だけ、マットへ向かって吠えた。
短く、鋭く。
それは命令ではない。
だが、意味ははっきりしていた。
――行け。
そう言われた気がした。
同時に、ササミが地を蹴った。
これまでのササミは、飛ぶことができなかった。コカトリスだった頃も、ロックスイーパーへ進化した後も、できるのはせいぜい短い滑空だけで、本当の意味で空を制する種ではなかった。
しかし今は違う。
蒼銀の翼が空気を受け、その巨体が明確に宙へ浮かび上がる。以前よりもはるかに重くなっているはずなのに、その重量をまるで感じさせない飛翔だった。羽ばたきのたびに金属質の光が走り、その軌跡が青い鉱床の光を切り裂いていく。
マットは一瞬も迷わなかった。
岩を蹴って跳び、そのままササミの背へ飛び乗る。
足裏に伝わってくる感触は、毛でも皮膚でもない。金属に近い硬さを持ちながら、それでも生きた筋肉のしなやかさを失っていない、不思議な安定感だった。
「行くぞ、ササミ」
マットの声に、ササミが低く応える。
その瞬間、右腕に巻き付いたアミノがさらに強く体を締めた。白と紫の模様を持つ蛇の体から、これまで以上に強い電流が流れ込み、マットの神経と筋肉を一気に活性化させる。
右腕にありったけの力を込める。
筋肉が膨れ、張り、神経が焼けるような刺激を放ちながら反応速度を限界まで高めていく。普通の人間なら、これほどの電撃を浴びた時点で腕の自由を失っていてもおかしくない。だが、マットは違った。回復魔法が絶えず流れ込み、壊れそうな筋繊維を修復し、負荷だけを積み上げていく。電撃と回復、その繰り返しが肉体をむしろ戦闘向きへと研ぎ澄ませていた。
そして、マットの腕から漏れた雷は、ササミの背へ触れた瞬間に、すっと消えた。
吸われたのではない。逸らされたのだ。
魔力を遮断する。
それが、蒼銀の巨鳥へと進化したササミの新たな形質だった。
ミスリル、魔力鉱、魔力遮断鉱。そのすべてを食らって生まれたこの翼は、単なる硬さだけではない、魔力干渉そのものを弾く性質まで獲得している。
頼もしい。
足元からそう思えた。
マットはさらに力を込める。電撃に呼応するように、彼の体を柔らかな緑の光が包んだ。回復魔法だ。神経を焼き切りかねない過負荷を維持したまま、肉体だけを次の瞬間へ送り込むための光。
加速する。
視界の景色が一気に流れた。
洞窟の壁、青い鉱床、足場となる岩、イレーヌの叫び、アルエとリーリヤの息遣い。すべてが線になって後ろへ飛び去っていく。
空を飛ぶキマイラと、蒼銀の巨鳥に乗ったマット。
二つの影が、地下洞窟の中央で交差する。
その一瞬は、あまりにも短かった。
ササミの翼がしなる。
蒼銀の羽根は、もはやただの翼ではない。金属の刃そのものとなった翼端が、キマイラの異形の翼を根元から切り裂く。黒と白、歪な一対の羽が抵抗する間もなく断たれ、その切断面から血と魔力の霧が散った。
同時に、マットの拳がまっすぐに突き出される。
今まで何度も弾かれ、阻まれてきたキマイラの胴体。その中心へ向けて放たれた拳は、ササミの作った刃の軌道と完全に重なっていた。
外殻が裂ける。
継ぎ目が広がる。
そしてついに、拳がその胴へ深々と突き刺さった。
その瞬間、アミノから流れ込んでいた電撃が、一気に解放される。マットの腕から怪物の体内へと流れ込んだ雷は、外へ逃げることなく内部を駆け巡り、継ぎ合わされた異形の肉と魔力回路を容赦なく焼き切っていく。
光が走った。
内部から迸った激しい電撃が、キマイラの全身を一瞬で白く染める。異形の継ぎ目という継ぎ目が痙攣し、骨格が軋み、制御を失った魔力が体内で暴発する。
次いで、地の底を揺らすような轟音が洞窟全体に響いた。
そして、その後に訪れたのは、信じられないほど深い静寂だった。
焼け焦げた臭いが立ち上る。
キマイラの体は、翼を失い、焦げた肉と崩れた甲殻を晒しながら、重く地面へと落ちた。異形の尾は痙攣を繰り返した後に力を失い、黄色い瞳も濁っていく。
誰も、しばらく言葉を発せなかった。
ようやく、アルエが震える声で呟く。
「……終わったの?」
その問いに答えたのはロイドだった。
彼は焼け落ちたキマイラの体を見つめ、それからササミの方へ視線を向ける。興奮と感動と研究者としての狂気が、もはや隠しようもなく顔へ浮かんでいた。
「終わったよ……いや、それよりも!」
ロイドは一歩、また一歩とササミへにじり寄る。
「見た!? 今の見た!? 完全に飛んでたよね!? しかもあの翼、ただ硬いだけじゃない、魔力干渉を遮断していた! 雷が触れた瞬間に消えたんだよ! いや、正確には無効化したというべきかな!? それにミスリルの光沢、翼端の形状、嘴の変化、明らかに進化系統が――」
そこから先は、ほとんど早口で聞き取れなかった。
興奮しすぎて言葉が渋滞している。
イレーヌはというと、既に気持ちを切り替えていた。焼けたキマイラの死骸に近づき、その周囲を確認しながら、すぐさま調査再開の指示を飛ばしている。
「そこの研究員、残骸を記録しなさい。薬品の痕跡がないか、周辺の床も調べるのよ。魔法陣があるなら位置を全部書き留めて。こいつ一体で終わりだと思わない方がいいわ」
息を吐く暇もなく、彼女はすでに次の仕事へ移っていた。疲れているはずなのに、その背中にはまだ余力がある。
その姿を見送りながら、マットはようやく地面へ降りた。
同時に、全身から一気に力が抜ける。
戦闘中は高揚で押し切れていたが、電撃と回復魔法を延々と回し続けた反動は確かにあった。膝が少しだけ笑う。
「……つっかれた」
その場に腰を落とすと、アルエもすぐ隣へ座り込んだ。リーリヤも深く息をつきながら壁にもたれ、杖を抱え込むようにして肩の力を抜く。
「疲れたね……」
「うん。流石に、ちょっとしんどい」
そう言いながらも、リーリヤの目はササミから離れない。
蒼銀の巨鳥は、ゆっくりと翼を畳み、マットたちのそばへ戻ってきた。以前よりも大きく、以前よりも頼もしい姿だが、その仕草にはちゃんと今までのササミらしさが残っている。
マットが手を伸ばすと、ササミはその手に嘴を軽く擦り寄せた。
「よくやったな」
その一言に応えるように、蒼銀の巨鳥は静かに鳴いた。




