第69話 キマイラ
怪物の咆哮は、洞窟の奥で何度も反響した。
それは普通の獣の声ではなかった。喉の奥から搾り出された低い唸り声に、甲殻が擦れ合うような硬質な音と、爬虫類の呼吸を思わせる湿った息遣いが混ざっている。ひとつの生き物の声とは思えない、不自然な響きだった。
マットは静かに息を吐いた。
視線の先にいるのは、巨大なライオンに似た体躯の怪物。
しかしそれは、自然界の獣ではない。
肩口から背中にかけては、甲虫のような黒い装甲が張り付いている。尾は太く節くれだった爬虫類の尾へと変形し、片方の前脚には蜘蛛のような節が混ざっていた。さらに背骨のあたりには、別の生物のものらしい棘が不規則に突き出している。
継ぎ目。
明らかに、複数の生き物を無理やり繋ぎ合わせたような構造だった。
ロイドが息を呑む。
「……キマイラ」
その言葉が落ちた瞬間だった。
怪物が動いた。
床の岩を砕きながら、突進する。
「来るぞ!」
マットが叫んだ。
だがその瞬間にはもう、黒い影が横へ跳んでいた。
カーボである。
魔狼は地面を蹴り、岩壁を踏み、ほとんど空を滑るようにキマイラの横へ回り込む。その速度は、人の視線では追いきれないほどだった。
キマイラの注意がそちらへ向く。
黄色い瞳がカーボを追う。
しかし、カーボは決して正面からぶつからない。
すれ違うように走り、飛び、また走る。
挑発するように短く吠える。
キマイラの爪が振り下ろされる。
だが、その一撃は空を切った。
カーボはすでにそこにはいない。
魔狼は、完全に攪乱役に徹していた。
その背後では、ササミがゆっくりと位置を取る。
大きな体を低く構え、リーリヤとアルエの前に立つ。
まるで盾のようだった。
巨大な体躯のモンスターが、静かに唸る。
キマイラが振り向いた瞬間、ササミの目が細くなる。
もしこの怪物が魔術師へ向かえば、その瞬間に飛び出す。
その意志が、体の動きに現れていた。
背後では、リーリヤが素早く杖を構える。
「フラッシュ!」
次の瞬間、眩い光が爆ぜるように広がった。
白い閃光が空間を満たす。
暗い洞窟は一瞬で昼のように明るくなり、影が消える。
キマイラの目が細くなる。
わずかながら、動きが鈍った。
リーリヤはそのまま魔法を維持する。
「アルエ!視界クリア!」
「任せて!」
アルエが杖を振る。
炎が生まれる。
「フレイムウィップ!」
炎の鞭がしなる。
赤い軌跡が空を裂き、キマイラの体へ叩きつけられた。
しかし次の瞬間、硬い装甲に弾かれた衝撃が洞窟に響いた。
炎は、甲殻に阻まれた。
「硬っ!」
アルエが顔をしかめる。
キマイラの外殻は、異様なほど頑丈だった。
その時だった。
マットの腕に、冷たいものが触れた。
アミノである。
白色の体が、ゆっくりと腕へ巻き付いていく。
筋肉のラインに沿うように。
まるで装甲の一部のように。
ぴたりと密着する。
直後、微かな放電が起きた。
マットの体に、電流が走る。
筋肉が細かく震える。
神経が強く刺激される。
普通ならば、それだけで動きが止まるはずだった。
だが。
マットは笑った。
「いい刺激だ」
アミノの新特性。
共生強化。
放電によって神経伝達が活性化する。
反応速度が上がる。
そして。
電撃による筋肉収縮。
それは普通の人間には耐えられない負荷だが。
マットは普段から EMS トレーニングを行っていた。
電気刺激で筋肉を鍛える。
その訓練が、ここで異常な形で噛み合った。
電撃。
回復魔法。
電撃。
回復魔法。
このループにより、マットの筋肉は疲労するどころか、むしろ刺激を受けて活性化していく。電撃による強制的な筋収縮と、それを即座に打ち消す回復魔法。その反復が、筋繊維を休ませる暇もなく動員し続ける。結果として、時間が経つほどに出力が上がるという、理屈としては理解できても現実離れした状態が成立していた。
マットは拳をゆっくりと握り込む。前腕の筋肉が隆起し、その張り詰めた動きだけで周囲の空気が震えたように感じられた。洞窟の冷たい空気が肌に触れ、足元の岩盤がわずかに軋む。次の瞬間、彼は地面を強く踏み込み、砕けた石片を蹴り上げながら一気に間合いを詰めた。
迎え撃つようにキマイラの爪が振り下ろされる。しかし、マットの目にはその動きがわずかに遅れて見えた。彼は体を半歩だけずらし、爪の軌道を外すと同時に腰を捻り、全身の筋肉を連動させて拳を振り抜く。重い衝撃が怪物の体へ伝わり、鈍い反動が腕に返ってきたが、キマイラの巨体はほとんど揺るがない。外殻を覆う甲殻部分は、常識外れの硬さを持っていた。
だが、その硬さの中でただ一か所だけ、不自然な境界が目に入る。肩口――肉と甲殻が無理やり縫い合わせられたような継ぎ目だった。異質な素材同士が繋がったその部分だけが、わずかに脆そうに見える。
「継ぎ目が弱点だ!」
マットの叫びが洞窟に響いた瞬間、別の鋭い声がそれを押しのけるように重なった。
「どいつもこいつも、私の街で好き勝手してくれちゃって!」
怒りを露わにしたイレーヌが前へ出る。細身のレイピアを抜き放ち、左手には小型のバックラー。装備自体は簡素だが、その立ち姿には一切の迷いがない。額には青筋が浮かび、静かだった洞窟の床に土属性の魔法陣が走る。
岩盤が震え、地面からせり上がった岩塊がキマイラの足元を押さえ込む。
「モンスターの活性化だの異常進化だの……どう考えたって、こいつを作った奴の仕業でしょうが!」
言葉と同時にイレーヌは踏み込み、矢のような速度で間合いへ飛び込んだ。細身の剣が空気を切り裂き、一直線に継ぎ目を狙う。突き込まれた刃は肉と甲殻の境界へ深く食い込み、押し込まれた衝撃とともに血が溢れ出た。
キマイラが激しく吠える。だが、イレーヌの目はまったく揺らがない。
「見つけ出して、ぎったんぎったんにしてあげるから!」
怒りに満ちた声とともに、彼女は間髪入れず二度目、三度目と鋭い突きを繰り出す。その勢いは凄まじく、怒気そのものが刃になったかのようだった。
「覚悟してなさいよ!」
元A級冒険者の圧力に、巨大なキマイラですら一瞬だけ足を引き、わずかに後退した。




