第6話 名前
洞窟の中には、いつもの音が響いていた。 このトレーニングを始めてから結構な年月が経った気もする。思えばもう8歳だ。
肉と肉がぶつかる鈍い衝撃音。
爪が岩を削る音。
そして――回復魔法の淡い光。
ドゴッ!
俺の拳が山狼の横腹にめり込む。巨体が横に吹き飛び、岩壁に叩きつけられた。
「ぐるる……!」
だが山狼はすぐに起き上がる。むしろさっきより闘志が増しているように見えた。
地面を蹴る。
灰色の影が一直線に迫る。
ガブッ!
牙が腕に突き刺さる。
「回復」
緑色の光が傷口を包み、肉が瞬時に再生する。
そのまま狼の首元を掴む。
「よし、もう一本!」
俺は体をひねり、そのまま狼を地面に叩きつけた。
洞窟の中で砂煙が舞う。
狼は転がりながら起き上がる。
そしてまた構える。
俺も拳を握り直す。
これが最近の日課だった。
朝は畑仕事。
昼は村の雑用。
そして空いた時間は――この洞窟でトレーニング。
山狼とのスパーリングだ。
最初はただの戦いだった。
だが今は違う。
互いに攻撃を出し合い、限界まで体を追い込む。
そして回復する。
また戦う。
それを延々と繰り返す。
普通なら死ぬような怪我でも、回復魔法がある限り問題ない。
むしろ筋肉はどんどん強くなっていく。
この方法は信じられないほど効率がいい。
ただ一つ問題があるとすれば――。
俺が強くなりすぎていることだ。
ガシッ。
狼の前足を掴み、体を持ち上げる。
昔ならこんなことは絶対にできなかった。
だが今は普通に持ち上がる。
「……でかくなったな、お前」
最初に会った時より明らかに体格が大きい。
毛並みも変わってきている。
褐色に近い毛の中に、白いラインが混じっている。
目は鋭い黄色。
一瞬、狐のようにも見える顔つきだ。
狼は不満そうに唸る。
「ぐる」
「はいはい、まだやるのな」
その時だった。
「……マット?」
洞窟の入口から声がした。
振り向く。
アルエだった。
最近はちょくちょく洞窟に来るようになった。魔法の練習をするらしい。
アルエは洞窟の端で杖を構えている。
最初にここへ来た頃、アルエの魔法はせいぜい火の玉が一瞬灯って、すぐに消える程度だった。
だが、この洞窟での練習を重ねるうちに少しずつ変わっていった。
火球は消えなくなり、宙に浮かび続けるようになり。
次第に大きさも増し、持続時間も伸びていく。
ぽん、と拳ほどの火球が浮かぶ。
アルエは集中したまま、じっとそれを維持していた。
その様子を見て、山狼――いや、カーボはわざとらしく胸を張るように立つ。
まるで『撃ってこい』と言わんばかりの姿勢だ。
「……じゃあ、遠慮なく」
アルエが杖を振る。
火球が飛んだ。
ドンッ。
山狼の肩に当たり、小さく火花が散る。
「ぐる」
痛がる様子はない。だが、確かに毛が焦げている。
最初の頃は、火の粉が当たる程度だった。
だが最近では違う。
ダメージらしいダメージとまではいかないが、山狼に手傷を負わせる程度には上達していた。
「うーん……安定してきたけど、まだ足りないわね」
「魔法ってそんな難しいのか?」
「難しいわよ」
アルエはため息をつく。
そして狼の頭を撫でた。
狼は気持ちよさそうに目を細める。
「この子は順調に強くなってるのにね」
「まあな」
俺は狼の頭をぽんぽん叩く。
アルエがふと首を傾げた。
「そういえばさ」
「ん?」
「この子、名前ないの?」
名前。
言われてみれば――。
「……つけてなかったな」
狼の顔を見る。
心なしか期待しているように見える。
こいつと一緒にトレーニングを始めてかなり経つ。
もはや完全な相棒だ。
名前くらいあってもいい。
「そうだな……」
少し考える。
筋肉の相棒。
トレーニング。
筋肉。
そして――。
「筋肉と言えばプロテインだが……」
アルエが呆れた顔をする。
「嫌な予感しかしないんだけど」
「いや、違う」
筋肉に本当に必要なのは――。
炭水化物だ。
「よし」
狼の頭を撫でる。
「お前の名前はカーボだ」
一瞬の沈黙。
そして。
「ワン!」
狼が嬉しそうに尻尾を振った。
洞窟の床をパタパタ叩く。
どうやら気に入ったらしい。
「カーボね」
アルエが笑う。
「いい名前じゃない」
ちなみに、この世界ではモンスターに名前を与えることには意味がある。
モンスターがその名を受け入れた時――。
ネームドモンスターとなる。
そして名を与えた者との間に、主従関係が成立する。
ただし条件がある。
モンスターがその者を上位者と認めること。
あるいは完全に服従していること。
普通はそう簡単には成立しない。
だが。
この洞窟で何ヶ月も殴り合いを続けてきた関係だ。
条件はとっくに満たしていた。
その瞬間。
俺と狼の間に、微かな光が走った。
だが――。
「よしカーボ!もう一本いくぞ!」
「ワン!」
俺もアルエも、その意味には全く気づいていなかった。
こうして。
ネームドモンスター、カーボが誕生したのだった。




