第5話 スパーリング
洞窟の中に、荒い呼吸が響いていた。
「はぁ……はぁ……」
「ぐるる……」
薄暗い空間の中、俺と山狼は数歩ほどの距離を空けて向かい合っている。地面には乾いた血の跡がいくつも残り、壁には衝撃で砕けた石の破片が散らばっていた。
ここは村外れの森の奥にある小さな洞窟。
大人では通り抜けられないほどの隙間を抜けた先にある、俺だけが知る秘密の場所――俺専用のジムだ。
最初にこの洞窟へ連れてきた時、この山狼は完全な敵だった。牙を剥き、少しでも隙を見せれば食い殺そうと襲いかかってきた。
だが今は違う。
互いに構え合うこの空気は、もはや狩りでも生存競争でもない。
――トレーニングだ。
俺は拳を軽く握り直す。
「もう一本いくか」
その言葉を理解したかのように、山狼の体が低く沈む。
次の瞬間。
地面を蹴った。
灰色の影が一直線に迫る。
ガブッ!
牙が肩に突き刺さる。鋭い痛み。肉が裂け、血が噴き出す。
「回復」
緑色の光が傷口を包む。裂けた肉が瞬時に再生する。筋肉が膨張し、噛みついた牙を押し返す。
山狼は距離を取り、すぐに踏み込んでくる。
今度は爪。
ガリッ!
腹が裂ける。
熱い痛み。
回復。
俺はそのまま拳を振り抜いた。
ドゴッ!
狼の鼻に直撃する。巨体が横に吹き飛ぶ。
だが山狼はすぐに起き上がる。
牙を剥き、再び構える。
俺も姿勢を低くする。
次の瞬間。
同時に踏み込む。
牙。
拳。
爪。
血。
回復。
それを何度も繰り返す。
これが俺の新しいトレーニング。
――スパーリングだ。
この方法は驚くほど効率が良かった。
攻撃を受ける。
回復する。
筋肉が再生する。
そして強くなる。
普通の筋トレとは比較にならない速度で肉体が成長していく。
だが、数週間続けた頃。
異変が起きた。
「……ん?」
山狼の牙が止まる。
いや、違う。
通らない。
もう一度噛ませる。
ガブッ。
だが。
傷がつかない。
「効かない……だと?」
爪も牙も、俺の体にダメージを与えられない。それどころか、弾かれた反動で狼の方が傷ついている。
山狼も困惑しているようだった。
「すまんな」
俺は回復魔法を狼にかける。緑の光が体を包み、傷が消える。
その瞬間。
ガブッ。
再び牙が食い込む。
「……なるほど」
理解した。
筋肉は負荷がなければ成長しない。
つまり、俺だけ強くなっても意味がない。
パートナーも強くならなければならない。
俺は狼の頭を軽く叩く。
「お前も鍛えるか」
それからトレーニングは変わった。
戦う。
回復する。
戦う。
回復する。
それは俺だけではない。
狼にも回復魔法をかける。
傷を治し、筋肉を再生させる。
そしてまた戦う。
こうして俺と山狼は互いに鍛え合う存在になっていった。
牙は鋭くなり。
爪は強くなり。
突進は速くなる。
洞窟の奥で、野生では決して生まれないようなモンスターが静かに育っていった。
その日の朝。
俺はいつものように早起きして洞窟へ向かっていた。
村はまだ眠っている。
この時間は俺だけの黄金のトレーニングタイムだ。
入口の岩をどかし、洞窟へ入る。
「おはよう」
「ぐる」
山狼が低く唸る。今では完全に顔なじみだ。
俺は豆を器に入れて置く。
「朝飯だ」
狼が豆を食べている間に、軽く体をほぐす。
「それじゃあ始めるか」
狼が構える。
次の瞬間。
再びスパーリングが始まった。
何度も攻撃を交わし、何度も回復を繰り返す。
互いに息が上がり始めた頃だった。
「……マット?」
洞窟の入口から声がした。
山狼の耳がぴくりと動く。
視線が入口へ向く。
岩の隙間から顔を覗かせていたのは、アルエだった。
その姿を見た瞬間、山狼の目が鋭くなる。
「ぐるるるる……!」
低い唸り声。
体を低く沈める。
次の瞬間。
地面を蹴った。
アルエへ一直線。
「ひっ!」
アルエが悲鳴を上げる。
「待て」
俺は短く言った。
それだけだった。
山狼の動きが止まる。
着地。
数歩進み。
ゆっくりと腰を落とした。
お座り。
洞窟に沈黙が落ちる。
アルエが口をぱくぱくさせる。
「え」
「え?」
「えええええええ!?」
「なんで!?なんで狼が言うこと聞くの!?」
俺は首をかしげる。
「スパーリングのパートナーだからな」
「意味が分からない!!」
アルエは頭を抱える。
その横で山狼は静かに座っていた。
まるで次の指示を待つ兵士のように。
アルエはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐く。
「……これ、誰かに言ってる?」
「言ってない」
アルエは少し考えた。
「言わない方がいい」
理由は簡単だ。
村人に知られれば、この狼は確実に討伐される。
アルエは狼を見て、それから俺を見る。
「マットって……」
少し考えて。
「やっぱり変」
だが、少しだけ笑った。
こうして。
俺の秘密のジムには、最初の目撃者ができたのだった。




