第58話 閑話 鍛える者
アーデンへ向かう街道は、春の終わりの風に満ちていた。乾いた土の匂いと、遠くの森から流れてくる若葉の香りが混ざり合い、長旅の疲れをほんの少しだけ和らげてくれる。道の脇には低い石垣が続き、その向こうには麦畑が広がっていたが、ところどころ手入れの行き届いていない畑も目についた。人の気配が、どこか薄い。
やがて小さな村が見えてきた。
家屋は石と木で作られた素朴なものばかりで、中央には井戸と小さな広場がある。だが人の姿はまばらで、夕方だというのに子供の声もほとんど聞こえない。
「静かな村だな」
マットが周囲を見回しながら言うと、ロイドが肩をすくめた。
「静かというより、少し寂れていると言った方が正確かな。周辺の魔物が増えた地域ではよくある光景だね。若者は街へ出てしまうし、残るのは年寄りばかりになる」
リーリヤは広場の端で座っている老人を見つめながら、少しだけ眉をひそめた。
「宿屋はなさそうね」
村を一周するまでもなく、それは明らかだった。旅人を迎えるような看板も、酒場の灯りも見当たらない。
しばらくして、村長らしき初老の男が現れ、事情を聞くと申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまんのう。昔は宿もあったんじゃが、今はもう閉めてしまってな。もしよければ神殿を使うといい。今はほとんど誰も来ん」
案内された先にあったのは、村の端に建つ小さな石造りの建物だった。
古いが、しっかりとした造りだ。
扉を押して中へ入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。石の床の奥、祭壇の向こうに立っている像を見た瞬間、マットの目が輝いた。
「……いい体してるな」
そこにあったのは、筋骨隆々の神像だった。
巨大な胸板、隆起した三角筋、岩のような腹筋。大理石を削り出して作られたその像は、単なる装飾ではなく、肉体そのものを讃える彫刻だった。
ロイドが顎に手を当てて観察する。
「武神系かな。戦士の守護神というタイプはこの世界でも多いからね」
そのとき、奥の部屋から年配の神官が現れた。痩せた体に古びた法衣をまとい、しかし姿勢だけは不思議と真っ直ぐだ。
「旅人か。ようこそ、鍛神ガルドの神殿へ」
「鍛神?」
リーリヤが聞き返すと、神官は静かにうなずいた。
「鍛錬を司る神だ。かつては戦士や冒険者が多く訪れたものだが……今ではこの通りだ」
神殿を見回すと、確かに人の気配はほとんどない。祈りの席も埃をかぶっており、灯されるはずの聖火も弱々しい。
「信仰が減ったの?」
アルエが聞く。
「時代だろうな」
神官は少し寂しそうに笑った。
「魔法が普及し、戦士の数も減った。己の拳ではなく剣を。剣よりも魔法を頼る時代だ。鍛錬を祈りとする神など、今では古い考えなのかもしれん」
その言葉を聞きながら、マットは神像をじっと見つめていた。
そして、満足そうにうなずく。
「いい神だ」
次の瞬間、床に手をついた。
腕立て伏せを始めた。
リーリヤが一瞬固まる。
「……何してるの?」
「お祈り」
あまりにも自然な声でマットが答える。
神官が目を瞬かせた。
「え?」
マットは腕立てを続けながら神像を見上げた。
「鍛錬の神なんだろ。だったら鍛えるのが礼儀だ」
腕が上下するたび、床板が微かに軋む。
一回。
二回。
三回。
その様子を見ていたロイドが、ふっと笑った。
「なるほど。理屈としては間違っていないね」
「間違ってないの!?」
リーリヤが思わず叫ぶ。
「宗教というのは象徴体系だからね。祈りの形は文化ごとに違う。もしこの神の信仰が“鍛錬こそ祈り”という思想なら、彼の行動はむしろ正統だよ」
そう言いながらロイドは神像を見上げた。
「一応冒険者の先輩として、神様について少し説明しておこうか」
彼は指を立てる。
「この世界では複数の神が存在している。もちろん実際に見た人間なんてほとんどいないけどね」
「でも神がいるってみんな言うけど、ほんとに存在するの?」
アルエが聞く。
「証拠があるからさ」
ロイドは肩をすくめた。
「神が作ったとされる武器、いわゆる神器というものが存在する。それを持つ冒険者はSランクとも言われる存在だ。そういう物が現実にある以上、神の存在を完全に否定するのは難しい」
「神様って色々いるのね」
「うん。信徒の数の大小はあるけれど、現代で信仰されているのはおよそ四百柱といったところかな」
リーリヤが目を丸くした。
「そんなに?」
「毎日別の神様に祈りを捧げても一年以上かかる計算になるね」
「それは覚えきれないわね……」
「まあ、普通は生活に関係する神だけを信仰するものだよ。農民なら豊穣神、鍛冶屋なら火の神、冒険者なら武神や守護神という具合にね」
その説明の横で、マットは黙々と腕立てを続けていた。
五十回。
百回。
呼吸が深くなる。
筋肉が張り、血が巡る。
そして。
神像が、淡く光った。
神官が固まる。
「……え?」
次の瞬間、神殿の空気がわずかに震えた。
祭壇の奥から、柔らかな光が広がる。
マットは気にせずスクワットに移行していた。
「これは……」
神官の声が震える。
「奇跡だ」
ロイドが冷静に言った。
「どういう条件で発動する神殿なんだろうね」
神官は神像を見上げたまま答える。
「鍛神ガルドの加護は、本気の鍛錬を行う者にのみ降りると言われている。だが……この村にはもうそんな者は……」
マットはスクワットを続けている。
百。
二百。
神像の光が強くなる。
神官が膝をついた。
「神は……まだ我らを見ておられた……!」
「いや多分違う」
ロイドが冷静に呟く。
その騒ぎを聞きつけ、村人たちが神殿に集まってきた。
そして光る神像と筋トレするマットを見て、ざわめく。
「腕立てだ!」
「スクワットだ!」
「鍛えれば奇跡が起きるのか!?」
誰かが腕立てを始めた。
別の誰かがスクワットを始めた。
神殿はいつの間にか、筋トレ場になっていた。
アルエが呆れた顔で言う。
「宗教ってこんな始まり方するの?」
ロイドは真面目な顔で頷いた。
「歴史を調べると、案外こんなものだよ」
夜遅くまで、神殿には掛け声が響いていた。
そして翌朝。
村人たちは全員筋肉痛で動けなくなっていた。
神殿の前で倒れ込む人々を見ながら、マットは爽やかに伸びをした。
「いい祈りだったな」
神官は涙目で言った。
「やりすぎです……」
ロイドは静かに手帳を取り出し、何かを書き込む。
「興味深い宗教現象だね」




