第56話 閑話 百知
それは、ほんの一瞬のことだった。
夜の森での戦闘は長くは続かなかった。マットが前に出てモンスターを押さえ込み、アルエの魔法がそれを焼き払い、リーリヤの魔法が動きを封じる。いつもの流れだった。ロイドは少し後ろから観察し、必要な助言だけを投げる。
しかしその時、倒れかけたモンスターが最後に放った一撃だけは、いつもと違っていた。
黒い霧のようなものが弾ける。
それは攻撃というより、吐き出された影の塊のようだった。
ロイドの視界が、一瞬だけ暗くなる。
そして世界が静かに歪んだ。
気付けば、焚き火の匂いは消えていた。
代わりに、湿った紙の匂いがする。
インクの匂い。
乾いた薬草。
革の装丁。
そこはギルドの研究室だった。
高い天井の下に並ぶ書架。壁際には瓶詰めの標本が並び、机の上には解体途中のモンスターの骨格図。無数のメモと図面が重なり合い、机の端には分厚い図鑑が何冊も積み上がっている。
そして、その中央に三人。
「……夢か」
ロイドは小さく呟いた。
だが否定する気にはならなかった。
むしろ、この光景は懐かしかった。
それは彼がまだパーティに所属していた頃の記憶。
百知。
そう呼ばれていたパーティだ。
正式名称はもっと長かったが、誰もその名では呼ばなかった。
百の知識を持つ者たち。
モンスターの研究において、その名はいつしか自然と定着していた。
ロイドは当時、ランクBの冒険者だった。
そしてそのパーティにはもう二人、同じくBランクの男がいた。
ゾーナス。
そしてリーダー。
エイブラハム。
彼だけがランクAだった。
エイブラハムは大きな体格の男だった。無駄のない筋肉に覆われた体は、戦士としても十分通用するものだったが、彼が手にしているのはいつも剣ではなく、分厚いノートだった。
「モンスターとは何か」
それが彼の研究テーマだった。
ロイドは今でも覚えている。
初めて会った日のことを。
エイブラハムは机の向こうで言った。
「モンスターを倒すのは簡単だ。だが、理解するのは難しい」
その言葉は、研究者としての信念だった。
百知の活動は、一般の冒険者とは大きく違っていた。
街の防衛。
討伐依頼。
護衛任務。
そういった仕事はほとんど受けない。
彼らの仕事は調査だった。
新種のモンスターの発見。
進化条件の調査。
生態の記録。
図鑑の更新。
それが成果となり、ギルドに提出される。
そして評価される。
百知のランクは、戦果ではなく知識によって上がっていった。
ロイドはモンスターの進化と生態を研究していた。
エイブラハムはもっと根源的だった。
モンスターとは何か。
なぜ存在するのか。
魔物と生物の境界はどこにあるのか。
そして。
ゾーナス。
彼だけは少し違っていた。
ゾーナスは進化そのものに興味を持っていた。
モンスターがどう変化するのか。
なぜ強くなるのか。
進化とは偶然なのか、必然なのか。
彼はその問いに取り憑かれていた。
研究室の机に座るゾーナスは、いつもどこか落ち着きがなかった。黒髪をかき上げながら、紙の上に何度も図を書き直している。
「見ろよロイド」
彼は笑いながら言った。
「もしこれが本当ならさ」
紙の上にはモンスターの進化図が描かれている。
「進化ってのは枝分かれじゃない」
彼は言う。
「階段なんだ」
ロイドは眉をひそめた。
「階段?」
「そう。段階があるんだよ。ある条件を越えると、一気に別の存在になる」
ゾーナスの目は輝いていた。
あの時の光を、ロイドは今でも覚えている。
それは純粋な探究心だった。
そして同時に。
危うい光でもあった。
エイブラハムはその話を聞きながら、静かに言った。
「進化を追うのはいい」
だが、と続ける。
「追われるな」
ゾーナスは笑った。
「何言ってんだよ。研究者が好奇心に追われなくてどうする」
エイブラハムはそれ以上は言わなかった。
しかし、その言葉は後になって重くのしかかることになる。
百知は多くの発見を残した。
新種のモンスター。
突然変異の進化条件。
特定環境下での変異。
それらの研究成果は図鑑に刻まれ、ギルドの資料として残っている。
しかし、そのパーティはある日、あまりにも唐突な形で終わりを迎えることになった。きっかけとなったのは、ドラゴンだった。
ドラゴン。それはこの世界において頂点に位置するモンスターの総称であり、同時に数え切れないほどの種を内包する存在でもある。火を吐くもの、氷を操るもの、嵐を呼ぶもの、大地を砕くもの――その姿も能力も多種多様でありながら、いずれも生態系の頂点に立つ力を持つ。多くの研究者が、彼らを進化の極点に位置する存在として語ってきた。
ゾーナスは、その考えに強く魅入られていた。ドラゴンとは進化の象徴であり、モンスターという存在が辿り着きうる到達点なのだと、彼は何度も語っていた。だが今思えば、あの頃すでに彼の関心は“観察”から外れ始めていたのかもしれない。
そしてある日、その理論に触れる機会が、偶然という形で訪れる。
山脈の奥、人の踏み入らない深い洞窟。その最奥部で彼らが見つけたのは、巨大な巣と、その中心に静かに置かれたひとつの卵だった。ロイドの記憶の中では、あの時の光景はいまでも鮮明なまま残っている。薄暗い洞窟の奥、岩肌に囲まれた空間に横たわる巨大な卵は、まだ孵化の気配も見せず、ただ静かに眠っているように見えた。
その瞬間、エイブラハムは即座に判断を下した。
「撤退する」
それは当然の判断だった。ドラゴンの巣に踏み込んだ時点で、すでに危険は十分すぎるほど高い。まして卵があるということは、親が近くにいる可能性が極めて高いということでもある。長居する理由など、どこにもなかった。
だが、その場で一人だけ、動かなかった男がいた。
ゾーナスだった。
彼は卵を見つめていた。まばたきすら忘れたように、息を詰め、まるでその殻の向こう側に世界の仕組みそのものでも透かし見るかのような目で。
「……見えるか、ロイド」
不意に、彼がそう言った。
ロイドは眉をひそめる。
「何がだ」
ゾーナスは笑った。その笑みは、いつもの軽さとはどこか違っていた。
「進化だよ」
彼は卵を指差す。
「モンスターってのはさ、突然強くなるわけじゃない。弱い個体が死んで、強い個体だけが残る。そうやって少しずつ階段を登っていく」
彼はゆっくりと言葉を続けた。
「でもさ……その階段、誰かが作ってるとは思わないか?」
ロイドは何も答えなかった。
ゾーナスの目は、卵ではなく、もっと遠くを見ていた。
「もし進化がただの偶然じゃないとしたら」
彼は呟く。
「条件さえ揃えば、作れるんだ」
そして卵に視線を戻す。
「進化ってのは、観察するものじゃない」
ゾーナスは静かに言った。
「作るものだ」
ロイドは振り返った。
「……何を言っている」
しかし、その時のゾーナスの目は、すでに研究者のそれではなかった。そこにあったのは理論ではなく、確信だった。あるいは、狂気と紙一重の信念。
「ドラゴンだぞ」
彼は震える声で言う。
「進化の頂点だ」
その目には、恐れがなかった。
「これを手に入れれば」
ゾーナスはゆっくりと手を伸ばす。
「進化を、作れる」
次の瞬間、洞窟全体が大きく揺れた。
その後の記憶は、今でも断片的だ。轟音、燃え上がる炎、洞窟の奥から響く咆哮、そしてエイブラハムの叫び声。それらが混ざり合い、すべてが一瞬の嵐のように過ぎ去っていった。
気が付いたとき、洞窟の一部は崩れ落ち、空間は半ば瓦礫に埋もれていた。ゾーナスの姿は、どこにもなかった。エイブラハムは地面に膝をつき、片腕を失っていた。そしてロイドだけが、奇跡のように無傷のままそこに立っていた。
それが、百知というパーティの終わりだった。
意識がゆっくりと現実へと引き戻される。森の匂いが戻り、焚き火の暖かな光が視界の端に揺れ、遠くではマットの豪快な寝息が聞こえていた。リーリヤとアルエの声も、どこか現実の重みを伴って耳に届く。
ロイドは静かに目を開いた。モンスターの死体はすでに燃え始めており、戦闘は完全に終わっている。
それでも胸の奥には、ひとつの記憶だけが静かに残っていた。
ゾーナス。
あの男は、もう死んだ。
洞窟の崩落の中で、ドラゴンの怒りの中で――少なくともロイドは、そう結論づけている。研究者としての推論ではなく、一人の元仲間としての決断として、あの場所であの男の人生は終わったのだと。




