第52話 偽りの筋肉
研究区画の騒ぎが落ち着いてから数日後。
地下施設の奥にある小さな会議室で、レイラムは静かに資料を閉じた。
机の上には、これまでの実験記録が積み上がっている。回復豆の効力、過剰再生の挙動、筋肉トレーニングと回復魔法の相互作用。どれも興味深い結果ではあった。
だが。
「結論として」
レイラムは淡々と言った。
「一般への転用は不可能だ」
研究員の一人が顔を上げる。
「不可能、ですか?」
「正確には、現段階では不可能だ」
レイラムは椅子にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
「回復豆。進化。筋肉トレーニング。どれも単体では興味深い技術だ」
だが、と続ける。
「根底にあるのは、あの男の異常な回復魔法の出力だ」
部屋の空気がわずかに沈む。
研究員たちは皆、実験を思い出していた。砕けた骨が瞬時に戻り、裂けた筋肉が盛り上がるように修復される。あれは通常の回復魔法の挙動ではない。
「さらに言えば」
レイラムは続ける。
「その回復力を前提にした、狂気じみたトレーニングがある」
腕を組む。
「普通の人間なら、初日の段階で身体が壊れる」
別の研究員が苦笑した。
「モンスターでも無理でしょうね」
「その通りだ」
レイラムは頷く。
「仮に外部に技術が流れたとしても結果は三つだ」
指を一本立てる。
「暴走」
二本。
「身体破壊」
三本。
「魔物虐待」
机に指を戻した。
「どれも成果とは呼べない」
研究室に静かな笑いが漏れた。
つまり。
真似をしても、意味はない。
レイラムは最後の資料を閉じる。
「この研究は続ける価値がある。だが長い時間がかかるだろう」
「そして少なくとも」
ほんのわずか、口元が動いた。
「あの男はもう必要ない」
研究員たちが頷く。
実験段階は終わった。
それだけの話だった。
◇
一方その頃。
魔法都市の昼下がり。酒場の奥まった席で、数人の男たちが顔を寄せ合っていた。
杯を傾けていた男が、鼻で笑う。
「ダンジョンじゃなくて、魔法都市の話なんだろ?」
「そうだ」
「なんで魔法都市で筋肉の話が出てくるんだよ」
もう一人が肩をすくめた。
「完全に眉唾じゃねえか」
それを聞いて、最初に話を持ち出した男がニヤリと笑う。
「だからこそだよ」
机を指で叩いた。
「考えてみろ。魔法都市だぞ? 筋肉なんて一番縁がなさそうな場所だ」
酒瓶を持ち上げ、仲間の顔を見回す。
「そんな場所で“筋肉で強くなる”なんて話が出てきたら――逆に本物っぽく聞こえねえか?」
男たちは顔を見合わせた。
……確かに、そう言われるとそんな気もしてくる。
腕を組んでいた男が眉をひそめる。
「でもよ、筋肉で強くなるってどういう理屈だ」
「そこは魔法だ」
「は?」
男は得意げに紙切れを叩いた。
「回復豆ってのがあるらしい」
「豆?」
「食うと回復魔法がかかる」
酒場の空気が一瞬だけ止まる。
「つまりだ」
男はゆっくりと言った。
「壊しても、治る」
その言葉に、誰かがぽつりと呟く。
「……鍛え放題ってことか」
男は笑った。
「そういうことだ」
杯が持ち上がる。
「やってみるか」
「おう」
酒瓶がぶつかり、鈍い音が鳴った。
その夜。
世界のどこにも存在しなかった思想が、酒場の隅で生まれた。
――筋肉錬成。
◇
その頃。
ダンジョンの作業区画。
例のグールが、黙々と石材を運んでいた。
以前とは違う。
背筋が伸び、筋肉は引き締まり、動きは妙に効率的だ。
そして作業が終わると。
何故か腕立て伏せを始める。
その様子を見て、マットは満足そうに腕を組んだ。
「いい筋肉になってきたな」
横にいたレイラムが呆れたように言う。
「グールに筋トレの指導をするな」
だがグールは、真剣な顔で腕立てを続けていた。




