第51話 筋肉矯正
柵が弾け飛んだ瞬間、巨大化したグールが床を蹴り、獣のような速度でマットへと飛びかかった。腐肉を漁るだけの魔物であるはずの身体は、今や不自然なほど膨れ上がった筋肉に覆われ、その動きには荒々しい力が満ちている。だが、その筋肉の張りはどこか歪で、皮膚の下で暴れる肉の膨張は、鍛えられた身体の静かな強さとは似ても似つかないものだった。
マットは一歩も退かない。
迫り来る腕を軽く外し、身体の軸をずらしながら拳を振り抜く。
鈍い衝撃音が響き、グールの身体が横へ弾き飛ばされた。胸郭が陥没し、骨の折れる感触が拳に伝わる。しかし、床に転がったグールの身体は、まるで何事もなかったかのように蠢き始めた。砕けたはずの骨が軋みながら形を取り戻し、裂けた筋肉が盛り上がるように繋がっていく。
レイラムの眉が鋭く動いた。
「……再生している」
マットはそれを見ても驚かない。ただ肩を回し、拳を軽く握り直した。
「やっぱりな」
グールが再び立ち上がる。血走った眼が獲物を見つけた肉食獣のように光り、喉の奥から獣じみた唸り声が漏れる。その身体からは腐臭ではなく、むしろ妙に生暖かい体温の匂いが漂っていた。腐敗を前提とする魔物の存在としては、あまりにも異質な感覚である。
グールが突進する。
床石が割れ、重い足音が地下区画に響く。だがマットはその突進を真正面から受け止めるように踏み込み、今度は腹部へ拳を叩き込んだ。空気が押し出されるような衝撃とともにグールの身体がくの字に折れ、そのまま壁へ叩きつけられる。
しかし。
再び肉が盛り上がる。
裂けた皮膚の下で筋肉が蠢き、壊れた組織が無理やり繋ぎ合わされるように修復されていく。
研究員たちの間から小さな悲鳴が上がった。
「止まりません……!」
レイラムは目を細め、観察するように呟いた。
「代謝が暴走している……回復魔法の蓄積による過剰再生か」
マットは軽く息を吐き、グールの動きを見据えたまま言う。
「だが無限じゃない」
「何だと?」
「豆に込めた回復には限界がある。食った分しか回復できない」
グールが三度目の突進を仕掛ける。
今度は拳と爪が真正面からぶつかった。
骨が軋む音が響き、衝撃が地下区画に伝わる。グールの腕が歪み、皮膚が裂ける。だがその傷もまた瞬く間に塞がっていく。
マットは拳を下ろしながら、静かに言った。
「なら根競べだな」
殴る。
砕ける。
再生する。
殴る。
砕ける。
再生する。
地下区画に鈍い衝撃音が何度も響いた。グールは狂ったように爪を振るい、噛みつき、突進を繰り返す。だがその攻撃は、鍛え上げられたマットの身体に決定的なダメージを与えることができない。逆に拳を受けるたびに骨が砕け、肉が裂け、そのたびに再生を繰り返していた。
やがて。
その再生に、わずかな遅れが生まれ始める。
レイラムが気付いた。
「……回復速度が落ちている」
マットは頷く。
「ドーピングの力など、所詮はまやかしだ」
次の瞬間、踏み込みと同時に拳が放たれた。
乾いた衝撃音が響き、グールの身体が大きく宙に浮き上がる。そのまま床に叩きつけられ、動かなくなった。
研究区画が静まり返る。
だが。
マットの怒りは収まらない。
「立て」
レイラムが顔を上げた。
「……は?」
マットは倒れたグールの胸に手をかざす。
淡い光が溢れ、回復魔法が流れ込んだ。裂けた筋肉が繋がり、砕けた骨が音を立てて戻っていく。
グールの瞼が震え、再び目が開いた。
何が起きたのか理解できていない様子で身体を起こす。
だが、目の前には先ほどまで戦っていた人間が立っている。
身体は動く。
ならば、やることは一つだ。
グールは再び襲いかかった。
しかし。
その拳はマットに一切通用しない。
受け止められた瞬間、衝撃がそのまま自分の腕に返り、骨が軋む。爪が弾かれ、逆に肉が裂ける。身体をぶつければ、反動で自分の筋肉が損傷する。
だがその傷も、すぐに回復魔法で塞がれる。
そしてまた殴る。
壊れる。
回復する。
殴る。
壊れる。
回復する。
その繰り返し。
研究員の一人が思わず呟いた。
「……拷問では」
レイラムは腕を組みながら静かに言った。
「違う」
マットの背中を見つめながら、淡々と続ける。
「教育だ」
やがてグールの動きが止まった。
筋肉の膨張は消え、荒れ狂っていた身体は静かに床へ崩れ落ちる。
マットはその姿を見下ろし、腕を組んだ。
「少しは筋肉の大切さが分かったか?」
レイラムは小さく息を吐いた。
「グールに説教するな」
だが、倒れた魔物の身体は、戦闘前よりわずかに引き締まって見えた。




