第50話 ドーピング
研究棟の空気は、ここ数日ずっと落ち着かない緊張を帯びていた。
原因は言うまでもない。
マットが持ち込んだ、あの豆である。
回復魔法を与えながら育てることで異常な速度で成長する植物。
しかも食料として成立する栄養価を持つ。
簡易的な分析を行っただけでも、その潜在的価値は常識の枠を軽々と踏み越えていた。
もしこの栽培方法が一般化すれば、食料事情そのものが変わる。
飢饉という言葉が歴史書の中だけのものになる可能性すらある。
だが同時に、それは既存の農業、流通、そして国家の均衡を崩しかねない危険な技術でもあった。
レイラムは研究机の前で腕を組み、深く息を吐いた。
「……厄介なことを持ち込んでくれたものだ」
視線の先では、当の本人が何事もない顔で腕立て伏せをしている。
「九十八……九十九……百」
マットは身体を起こし、肩を回した。
「やっぱり研究所って運動不足になるな。そろそろ依頼でも受けて動かないと身体が鈍りそうだ」
その言葉に、レイラムは思わずこめかみを押さえた。
この男は、本当に事態の重大さを理解していない。
だが、それが彼の強みでもあるのだろう。
もし自分の研究が国家を揺るがす可能性を持つと理解していたなら、ここまで無邪気に豆を植えることなどできなかったはずだ。
その時だった。
研究室の扉が勢いよく開いた。
「レイラム様!」
飛び込んできたのは若い研究員だった。
顔色が明らかに悪い。
「なんだ」
「試験区画で問題が発生しました!」
「問題?」
「例の豆の栽培区画です。魔物が侵入して……その……食べたようで……」
一瞬、レイラムの思考が止まった。
「……食べた?」
「はい……それで……暴れているんです」
レイラムは椅子を蹴るように立ち上がった。
「場所は」
「地下の植物試験区画です!」
「案内しろ」
短く言い、研究室を飛び出す。
マットも肩を回しながら後を追った。
「暴れてるって、どれくらい?」
「それが……通常の個体とは思えない力で……」
地下へ続く階段を降りると、すぐに騒ぎの音が聞こえてきた。
壁の向こうから響く衝撃音。
金属の柵が軋む音。
そして低い唸り声。
試験区画の扉が開く。
そこにいたのは、グールだった。
――はずだった。
本来のグールは、腐肉を食らう痩せ細った魔物だ。皮膚は灰色にくすみ、骨ばった四肢が不気味に伸びている。
だが、目の前の個体は違う。
通常の三倍近い体格。
膨れ上がった筋肉。
皮膚の下で魔力が脈打つように揺れている。
そして何より――
腐肉を食らうはずの魔物とは思えないほど、妙に肌艶が良かった。
血色のような光沢が皮膚の上に浮かび、まるで健康な肉体のように張りがある。
マットが眉をひそめる。
「……あれ、本当にグールか?」
床には食い荒らされた豆の莢が散乱していた。
魔物がこちらに気付き、低く唸る。
その声だけで、周囲の研究員が一歩後ずさった。
「柵が持たない!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、魔物が柵に体当たりした。
鋼鉄が悲鳴を上げる。
レイラムの顔色が変わった。
「……強化されている」
マットは魔物を見ながら、ゆっくり首を回した。
「そりゃ、怪我もダメージも負ってないのにこの豆を食べたら暴走もするか」
レイラムが眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「この豆には回復魔法をたんまり与えていて、それが濃縮されているんだ」
「初耳だが」
「トレーニング後の体の回復にはもってこいだが、何もない状態で食べれば栄養過多で逆効果になるだろう。タンパク質だって吸収量の上限がある。吸収されなかったものは脂肪になるんだ」
レイラムは怪訝な顔をした。
「つまり?」
「無意味な回復効果を体内に取り込んだら、異常に活性化した細胞が暴れ出す」
「君は何を言っているんだ」
「いや、確かに回復魔法を怪我もしていない奴に懸ける馬鹿は居ない。魔力の無駄だ」
一拍。
レイラムは魔物を見つめた。
「それが今だというのか」
マットは小さく息を吐いた。
「これは言ってしまえばドーピングか」
「ドーピング?」
レイラムが首を傾げる。
自分で口にしたその言葉に、マットはわずかに顔をしかめた。
トレーニングもせずにつけた力と筋肉に、何の意味があるのか。
薬の力で得た筋肉など、まがい物だ。
そんなものは許されない。
「ふざけるな」
低い声が漏れる。
「豆を食われたことがそんなに気にくわないのか」
レイラムが半ば呆れたように言う。
「違う」
マットは魔物を睨んだ。
「鍛えもせずに得た力。ましてやドーピングなど、筋肉への冒涜だ!」
研究員たちは顔を見合わせた。
誰も賛同しない。
というより、理解できない。
しかしマットの怒りは、その筋肉のように勝手に膨れ上がっていく。
カーボが低く唸った。
その瞬間。
柵が、ついに弾け飛んだ。
巨大化した魔物が咆哮を上げる。
マットはゆっくりと一歩前に出た。
「レイラム」
「なんだ」
「これ、倒していいか?」
レイラムは一瞬だけ迷い、そして頷いた。
「……好きにしろ」
マットは肩を鳴らした。
「よし」
拳を握る。
「ドーピング筋肉、矯正してやる」




