第49話 負荷と回復と豆
研究というものは、外から見るよりもはるかに地味で、そしてしつこい。レイラムの研究室に通うようになって数日、マットはそれを嫌というほど理解していた。机に向かい、紙に向かい、同じ質問を角度を変えて何度も投げる。記録、観察、仮説、修正。レイラムはそのすべてを執拗なまでに繰り返した。
「山狼を締め落としたとき、意識が落ちるまでの時間はどれくらいだった?」
「覚えてないな。数秒じゃないか?」
「数秒では記録にならない。三秒か、五秒か、それとも十秒か」
「そこまで数えてない」
「では次。スパーリング中の回復魔法の使用間隔」
「怪我したら」
「それでは記録にならない」
この調子である。
マットは椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げながら大きく息を吐いた。さすがに飽きてきた。研究というものが必要なのは理解できるが、同じことを延々と聞かれるのは性に合わない。身体を動かしていないと落ち着かないのだ。
「少し身体を動かしてくる」
そう言ってマットは椅子から立ち上がり、研究室の床で腕立て伏せを始めた。規則的な呼吸とともに筋肉が膨らみ、縮み、また膨らむ。カーボはその横で興味深そうに尻尾を揺らし、ササミは首をかしげてその動きを眺めている。
レイラムはしばらくそれを観察していたが、やがてペンを置いた。
「……その動作は筋力強化の訓練か」
「筋トレだ」
「魔法的補助は?」
「なし」
レイラムは顎に手を当て、少し考える。
「では、その訓練の延長としてスパーリングとやらを見せてくれないか。記録しておきたい」
マットは身体を起こし、軽く肩を回した。
「いいぞ。場所はあるのか?」
「研究棟の地下に訓練施設がある。魔法実験にも使うが、戦闘訓練も可能だ」
数分後、三人と二匹は研究棟の地下へ降りていた。厚い石壁に囲まれた広い空間で、床には衝撃を逃がす魔法陣が刻まれている。中央は十分な広さがあり、大型の魔物でも戦えるように設計されていた。
「ここなら問題ない」
レイラムは壁際に立ち、すでにペンを構えている。
「いつでもいい」
マットは軽く頷き、カーボと向き合った。巨大な狼は低く唸りながらも、その目には敵意ではなく、どこか楽しげな光が宿っている。これは戦いではなく、いつもの訓練なのだ。
次の瞬間、カーボが床を蹴った。巨体とは思えない速度で距離を詰め、鋭い牙がマットの肩を狙う。マットは半歩だけ身体をずらし、牙の軌道を外すと同時に腕を伸ばし、カーボの首筋を押し返した。衝突の勢いが床に伝わり、石が鈍く鳴る。
カーボはすぐに体勢を変え、今度は横から爪を振るう。風を裂くような軌道だが、マットは腰を落としてそれを受け止め、腕で弾きながら身体を滑らせるように回り込む。そのまま肩をぶつける形でカーボの重心を崩し、押し倒そうとするが、巨大な狼は踏みとどまり、逆に体当たりで押し返した。
衝撃でマットの足がわずかに浮く。だが彼はすぐに体勢を立て直し、拳を打ち込む。鈍い音が響き、カーボの毛並みが揺れる。次の瞬間、牙が腕をかすめ、血がにじんだ。
「いいぞ」
マットは笑いながら手をかざす。淡い光が傷口を包み、数秒で皮膚が元に戻る。カーボもまた肩口に受けた打撃をものともせず、再び踏み込んできた。
攻撃と回避、打撃と噛みつきが流れるように繰り返される。人と魔物の戦いというより、互いの動きを知り尽くした二者の訓練だった。衝撃のたびに床の魔法陣が淡く光り、エネルギーを吸収していく。
レイラムはその一部始終を食い入るように見つめながら、紙に走り書きを続けていた。
負荷。
回復。
負荷。
回復。
戦闘が十分ほど続いたところで、マットは手を上げて合図を出した。カーボもすぐに動きを止め、大きく息を吐く。
「今日はこのくらいでいいだろ」
マットは肩を回しながら袋を取り出した。
中から取り出したのは、見慣れない形の豆だった。彼はそれを数粒カーボに与え、自分でも一つ口に放り込む。
レイラムの目が細くなる。
「それが例の豆か」
「例のってほどのものじゃない。俺が育てただけだ」
「だが栄養密度は異常だ」
マットは肩をすくめる。
「まあ、筋肉にはいい」
しばらく黙ってそれを観察していたレイラムは、ふと顔を上げた。
「そういえば、栽培場所はどうしている」
「近くの荒地だ。そろそろ手持ちが心もとないんだ。滞在も長くなりそうだし、どこかで栽培させてもらえると助かる」
「それなら、こっちだ」
レイラムは踵を返し、研究棟の別区画へ向かった。
案内されたのは、学院の植物実験区画だった。広い空間がいくつもの透明な区画に分かれており、それぞれに異なる魔法陣が刻まれている。温度、湿度、水分量、土壌成分まで魔法で制御され、植物ごとに最適な環境が作られているらしい。
マットは周囲を見回しながらぽつりと言った。
「植物工場みたいだな」
レイラムは小さく頷く。
「言い得て妙だ。我々は植物実験区画と呼んでいるが、その理解で大きく外れてはいない」
彼は空いている区画の一つを指差した。
「ここを使うといい。条件の変更は職員に伝えれば調整できる」
「条件と言ってもな……」
マットは苦笑しながらポケットから豆を取り出した。
「これしか育たないような荒地で作ってたんだ」
そう言いながら土に穴を開け、豆を数粒埋める。そして手をかざし、淡い回復魔法を流し込んだ。
さらに拳で地面を軽く叩く。
「何をしているんだ」
「こうすると生育が早くなる」
マットが水をかけた瞬間だった。
土がわずかに盛り上がり、ぱきりと割れる。
小さな新芽が顔を出した。
レイラムのペンが落ちた。
「……は?」
マットは気にした様子もなく、芽に軽く指を当てた。でこぴんのようにわずかな刺激を与え、そのまま回復魔法を流し続ける。
芽は震え、伸び、葉を広げていく。数分もしないうちに、指先ほどだったそれは苗と呼べる大きさになっていた。
「あと数日これを続ければ収穫できる」
レイラムはしばらく言葉を失っていた。
やがて、かすれた声で言う。
「待て。数日と言ったな」
「言った」
「そんな速度で成長する植物が存在するものか」
マットは肩をすくめる。
「実際にあるんだから仕方ないだろ」
レイラムは額を押さえ、深く息を吐いた。
「またか」
そして小さく呟く。
「君は生態系だけでは飽き足らず、食物連鎖の根底すら覆すつもりか」
数日後。レイラムは収穫された豆の一部を研究室へ持ち込み、誰にも触れさせないまま分析装置へと投入した。魔力反応、栄養構成、組織構造。どれも常識の範囲内に収まるように見える。だが、数字の並びは明らかにおかしかった。
机に置かれたデータプレートを見つめたまま、彼は長い間、言葉を失っていた。
やがて小さく息を吐き、研究棟の廊下へ出る。
そこではマットがいつものように腕立て伏せをしていた。カーボはその横で退屈そうに尻尾を揺らしている。
レイラムはしばらくその光景を眺めてから、静かに声をかけた。
「……君は理解しているのか」
マットが顔を上げる。
一拍、間が空く。
「この豆が量産できた場合」
マットは何を言われているのか分からない顔をしたまま、汗を拭って答えた。
「どこでもトレーニングができるようになるな」
レイラムは首を横に振る。
「違う」
そして、低い声で言った。
「国家が動く」




