第47話 崩れ続ける契約
研究室の空気は、しばらく止まっていた。
男――従魔研究者は椅子から立ち上がり、ゆっくりとマットの後ろへ視線を移す。
最初に見たのはカーボだった。
巨大な体躯。
灰色の毛並みの奥で、金色の瞳が静かにこちらを見ている。
アルファダイアウルフ。
男は小さく息を吐いた。
「……群れの王か」
視線が横へ移る。
ササミ。
金属の成分が羽にまで蓄積した体は、部屋の床に重く沈んでいる。羽の表面を指先で軽く叩くと、鈍い感触が返ってきた。
研究者の眉がわずかに動く。
「ロックスイーパー……いや、違う」
もう一度、羽を叩く。
「この金属量……こんな個体は報告がない」
さらに。
アミノ。ウィッチバイパー。
白蛇が静かに鎌首を上げ、研究者を観察している。
男は目を細めた。
「この種に電撃属性は存在しないはずだが……」
そこで。
男の視線が止まった。
従魔ではない。
マットだった。
しばらく黙って見ていた研究者が、ゆっくりと口を開く。
「……君」
マットが首を傾げた。
「何だ?」
研究者は答えない。
その代わり、目を細める。
「少し視る」
次の瞬間、指先に淡い光が灯った。
契約を観測する魔法――魔力視。
部屋の空間がわずかに歪み、見えない糸が空中に浮かび上がる。
マット。
そして従魔。
それらを結ぶ魔力の線。
研究者の眉が動いた。
「……三本」
ロイドが肩をすくめる。
「そうだね」
だが研究者は頷かなかった。
むしろ、顔つきが少しずつ険しくなる。
視線が契約の線に吸い寄せられる。
太い。
異様に太い。
普通の従魔契約の数倍はある魔力が流れている。
それだけでも異常だった。
だが。
研究者の口から低い声が漏れる。
「……おかしい」
一歩、マットに近づく。
契約の線を凝視する。
そして、もう一度呟いた。
「この契約……」
沈黙。
「崩れている」
リーリヤが声を上げた。
「え?」
ロイドが腕を組む。
「崩れてる?」
研究者は首を振った。
「正確には違う」
再び契約を見る。
魔力の線は歪んでいた。
構造そのものが揺れている。
崩れる。
わずかに裂ける。
だが。
次の瞬間。
淡い光が流れる。
回復魔法。
歪みが修復される。
崩れる。
戻る。
崩れる。
戻る。
研究者はしばらく黙ってそれを見続けた。
ありえない。
契約は修復できるものではない。
その目が、ゆっくりと見開かれる。
「……なるほど」
視線がマットへ向く。
「君、回復魔法を使えるな?」
マットはあっさり頷いた。
「ああ」
ロイドが横から補足する。
「最上級だよ」
研究者の動きが止まる。
ほんの一瞬。
それから、小さく息を吐いた。
「最上級……」
再び契約を見る。
今度は迷いがなかった。
理解が一本の線に繋がる。
男は低く笑った。
「そういうことか」
指先で契約の線をなぞる。
「従魔を維持しているんじゃない」
視線は歪む契約へ。
「契約そのものが崩壊しかけている」
マットはきょとんとしている。
研究者は続ける。
「普通なら三体も契約すれば破綻する。魔力量が足りない。契約は崩れる。そして切れる」
男はマットを指差した。
「だが君は違う」
契約が再び歪む。
その瞬間。
淡い回復魔法が流れ込む。
歪みが修復される。
研究者は静かに言った。
「君は――」
「契約の崩壊を回復魔法で修復しながら運用している」
部屋が静まり返った。
アルエがぽかんと口を開ける。
「え?」
リーリヤも困惑した声を出す。
「そんなこと……」
ロイドだけが腕を組み、ゆっくり頷いた。
「理論上は可能だね」
研究者はマットを見つめた。
その視線は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
従魔ではない。
少年そのものを見ている。
「理論上は可能だ」
研究者は静かに言う。
「だが、それを無意識でやる人間は――」
言葉が途切れる。
そして、小さく笑った。
「初めて見た」
マットが頭をかいた。
「いや、よく分からんけど」
少し考え。
首を傾げる。
「そもそもさ」
全員がマットを見る。
マットは素朴に言った。
「従魔との契約って何だ?」
沈黙。
ロイドが瞬きをする。
「……は?」
マットは肩をすくめた。
「カーボにしてもササミにしてもさ」
後ろの二匹を親指で指す。
「野生だったやつを生け捕りにして、一緒にトレーニングしてたら懐いただけなんだよな」
リーリヤが固まる。
マットは続けた。
「変な魔法とか儀式とかした覚えないんだけど」
部屋の空気が止まった。
研究者の目がゆっくり見開く。
「……待て」
声が低くなる。
「今、何と言った?」
マットは普通に答える。
「生け捕り」
研究者の視線が動く。
カーボ。
ササミ。
そして。
アミノ。
「では」
震える指で指した。
「その子は?」
マットはあっさり言った。
「ああ、こいつ?」
アミノをぽんと叩く。
「もともとコカトリスだったササミの尻尾がちぎれてさ」
研究者の瞳孔が開く。
マットは気にせず続ける。
「そしたら別のモンスターに進化したんだよ」
ササミを指す。
「ササミもその時ロックスイーパーに進化したみたい」
沈黙。
完全な沈黙。
研究者の口がゆっくり開いた。
そして。
震える声が漏れる。
「……進化」
ロイドが頭を抱えた。
「なるほど」
小さく呟く。
「これは――」
研究者が笑い始めた。
静かに。
だが止まらない。
「はは……」
そしてマットを見つめる。
目が完全に研究者のそれになっていた。
「君」
ゆっくり言う。
「君は」
言葉を選ぶように。
「魔物学を壊している」
沈黙。
ロイドが頭を抱えた。
「……ああ」
ため息をつく。
「また学会が荒れるな」




