第43話 再戦
朝の空気は冷たく、村の屋根の上にはまだ薄い霧が残っていた。夜露を含んだ風が藁の匂いと焼きたてのパンの香りを混ぜながら、ゆっくりと通りを流れていく。家畜小屋の向こうでは牛が低く鳴き、遠くで鶏が羽をばたつかせていた。村はまだ完全には目覚めていないが、確かに一日の始まりを迎えつつあった。
宿の前では、マットたちが出発の準備を進めていた。
カーボは地面に伏せ、尾を静かに揺らしながら周囲を警戒している。巨大な体躯を持つアルファダイアウルフだが、その動きは落ち着いており、長い旅にも慣れている様子だった。ササミは岩の塊のような身体を低く沈め、背に荷を乗せやすくしている。アミノは宿の前に置かれた石の上で丸くなり、朝日を受けて紫の鱗を鈍く輝かせていた。
ロイドは馬の手綱を確認し、荷の括りを最後に見直してから小さく頷く。
「よし。忘れ物はなさそうだな」
出発の声をかけようとした、その時だった。
村の通りの向こうから、一人の男が駆けてくるのが見えた。息を切らしながら手を振り、こちらへ必死に呼びかけている。
「す、すみません……! 出発前に……!」
ロイドはその姿を見て眉を上げた。
「……昨日のギルドの職員か」
近づいてきた男は、昨日ギルドの出張所で挨拶を交わした職員だった。胸を上下させながら呼吸を整え、ようやく言葉を続ける。
アルエが一歩前へ出る。
「どうかしました?」
男は一度深く息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。
「皆様はDランクのパーティと伺いました。それで……少しご相談がありまして」
ロイドが腕を組む。
「相談?」
「村付きの冒険者が依頼の最中に怪我をしてしまいまして。現在、いくつかの依頼が滞っている状態なんです。ただ……その中で、一つだけどうしても放置できないものがありまして」
男の声がわずかに低くなる。
「村の周囲で、モンスターが確認されています」
一瞬の間。
「オーガです」
その名前が出た瞬間、アルエの表情がわずかに強張った。
本来この地域に現れるはずのない魔物だ。森の奥深くや山岳地帯に棲むことが多く、平地の村の近くに姿を現すことは稀だった。
職員は続ける。
「最初は目撃だけでした。しかし昨夜、家畜が襲われました。柵を壊され、牛が一頭やられています」
巨大な足跡が残されていた。
折れた柵は内側から押し倒されたように曲がり、地面には重い体重を示す深い踏み跡が刻まれていたという。
「味を占めれば、次は村を襲う可能性が高い。ですが今、この村には戦力がありません」
男は深く頭を下げた。
「無理を承知でお願いします。報酬は弾みます」
沈黙が落ちた。
アルエの脳裏には、以前の戦いの光景が浮かんでいた。
巨大な影。
岩のような筋肉。
自分の魔法がまるで効かなかった灰色の皮膚。
カーボもササミも、一撃で叩き伏せられた。マットの拳ですら通じなかった。
あの時、全員が死ぬかもしれないと思った。
エルザが現れなければ、間違いなく終わっていた戦いだった。
アルエは横を見る。
「……どうする?」
しかし。
マットの様子はまるで違っていた。
彼は震えていた。
恐怖ではない。
胸の奥から湧き上がる高揚を押さえきれないような、そんな震えだった。
「オーガ……」
拳をゆっくりと握る。
「こんなにも早く、再戦の機会が来るとは」
カーボが静かに立ち上がり、ササミも低く体を揺らした。アミノは鎌首をもたげ、空気の匂いを確かめるように舌を動かす。
マットは小さく笑った。
「トレーニングの成果を試すには、ちょうどいい」
ロイドはその様子を見て肩をすくめた。
「決まりだな」
職員から場所を聞くと、一行はすぐに森へ向かった。
畑を抜け、木々の影が濃くなるにつれて空気が変わる。湿った土の匂いが強まり、折れた枝が地面に散らばっていた。しばらく進むと、開けた場所に出る。
そこには牛の死体が横たわっていた。
そして、その奥で。
ゆっくりと枝が揺れた。
重い足取りで現れたのは、三メートルを超える巨体だった。
灰色の皮膚。
岩のように膨れ上がった筋肉。
牙の並ぶ口。
オーガ。
赤い目が、ゆっくりとマットたちを捉える。
ロイドの目が細められる。その巨躯を隅々まで観察する。肩の厚み、腕の長さ、重心の位置。踏みしめた地面の沈み方から、体重までおおよそ見当がついた。
森の空気が、わずかに張り詰める。
オーガはすぐには動かなかった。赤い目でこちらを見据え、ゆっくりと鼻を鳴らす。人間の匂い、血の匂い、そして魔物の匂いを嗅ぎ分けているようだった。巨体がわずかに揺れるたび、筋肉の塊が皮膚の下で波打つ。
カーボが低く唸った。
その前脚がわずかに地面を掻く。飛び出す準備を整えている合図だった。
ササミは一歩前に出て体を低く構える。岩の装甲が重く擦れ、巨体を盾にする姿勢を取る。
アミノは鎌首をもたげ、空気を探るように舌を動かした。紫の鱗がかすかな緊張を帯びて光る。
マットは拳をゆっくりと握る。
逃げるでもなく、急ぐでもない。
ただ、相手の動きを待っていた。
ロイドが短く言う。
「筋力特化型だ。魔法抵抗も高い」
声は低く、しかし確信を含んでいた。
次の瞬間、オーガの巨体が地面を蹴る。巨体からは想像できない速度で距離を詰め、腕を振り上げた。
その軌道へ、黒い影が滑り込む。
カーボだった。
牙がオーガの腕に食い込み、巨体同士が真正面からぶつかる。地面が抉れ、カーボの四肢が深く土を踏みしめた。
ロイドは目を見開く。
以前の戦いでは、カーボは一撃で吹き飛ばされていた。
しかし今は違う。
巨体を真正面から押し止めている。
「今だ!」
アルエが叫ぶ。
リーリヤが魔法陣を展開する。
炎が広がり、続いて氷の槍が地面から突き上がる。
爆炎と氷が同時にオーガを包んだ。
だが、それでもオーガは倒れない。
怒りの唸り声を上げながら腕を振り上げた。
その拳を受け止めたのはササミだった。
蓄積された金属が軋みながらも、巨体を正面から支える。以前なら粉砕されていた衝撃を、今は踏みとどまって耐えていた。
その背後から、紫の影が滑り込む。
アミノ。
牙が首筋に突き刺さり、電撃が体内へ流れ込む。
オーガの動きが一瞬だけ止まった。
「神経が止まった!」
ロイドが叫ぶ。
その瞬間、マットが動いた。
地面を蹴り、一直線にオーガの懐へ飛び込む。
拳を握る。
背中、脚、肩、腕。
全身の筋肉が一斉に収縮し、力が一点へと集まる。
拳がオーガの腹へ深くめり込んだ。
巨体がわずかに浮く。
ロイドは息を呑んだ。
「……オーガと筋力が互角って」
オーガが怒り狂い、拳を振り上げる。
だがその動きを、カーボとササミが押さえ込む。
アミノの電撃が再び走る。
完全に動きが鈍った。
マットはもう一歩踏み込み、再び拳を叩き込む。
骨が軋む音が森に響き、オーガの巨体がゆっくりと後ろへ崩れた。
大地が震え、森が静まり返る。
マットは拳を軽く振り、息を吐いた。
「よし」
「筋肉、裏切らなかったな」
アルエはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて小さく呟く。
「……本当に倒したの?」
ロイドが肩をすくめる。
「みたいだね。知ってるかい。オーガってのは本来Cランクでも十分に苦戦する結構上位のモンスターなんだよ?」
森の中で、オーガはもう動かなかった。




