第37話 地下水脈の王
坑道の奥へ進むにつれて、空気がゆっくりと変質していった。
それまで鼻を刺していた乾いた岩の匂いに、いつの間にか湿り気が混じり始めている。足元の石はひんやりと冷え、壁面には細い水の筋が走り、その先端から落ちる雫が静かな空洞の奥へと反響していた。滴る音は妙に遠くまで響き、まるで地下そのものが呼吸しているように感じられる。
マットは歩みを緩めた。
腕甲に触れる岩肌は冷たい。呼吸をするたび、肺へ入り込む空気の温度がわずかに下がる。湿り気を帯びたその匂いは川辺に似ているが、地上のそれよりも遥かに古く、長い年月をかけて閉じた場所で循環してきた水の匂いだった。
「……広いな」
視界が一気に開けた瞬間、思わず言葉が漏れた。
坑道の裂け目を抜けた先には、巨大な地下空間が広がっていた。
天井は高く、見上げても全体を把握できない。長い年月をかけて削られた岩のアーチが幾重にも重なり、空洞を静かに支えている。ところどころから垂れ下がる鍾乳石には水滴が宿り、その先端から落ちる雫が下の水面を小さく揺らしていた。
地下湖だった。
岸辺には滑らかな岩が並び、その隙間から青白い苔が淡く光っている。壁面にも同じ色の菌糸のようなものが広がり、それらが寄せ集まった弱い光のおかげで、空洞の輪郭だけがぼんやり浮かび上がっていた。
幻想的だった。
だが同時に、ここが人の領域ではないという静かな拒絶も感じさせる。
ササミが小さく鳴いた。
普段の能天気な声ではない。羽をわずかに膨らませながら足元の岩を一度だけ嘴でつつく。金属のような音が空間へ響き、地下湖の水面がそれに応えるように震えた。
アミノはマットの肩から降り、濡れた岩肌へ体を這わせる。舌がゆっくり出入りし、空気だけでなく岩の温度や水気まで確かめているようだった。
カーボは入口から少し前へ出た位置で足を止め、ただ水辺の暗がりを見つめている。毛を逆立てているわけではない。だがその背中には、戦場へ踏み込む者だけが持つ緊張があった。
ロイドが低く呟く。
「理想的すぎる環境だ」
「何がだ」
マエストロが聞き返す。
「透明種が大型化する条件。湿度、水面反射、閉鎖空間。全部揃ってる」
マットは湖面を見つめた。
静かだ。
だが静かすぎる。
ここまで来るまでに小型個体の群れは何度もいた。本来ならこの空間はもっと気配が乱れていてもいい。だが今この場所は、最初から存在していた秩序へ無理やり踏み込んだような違和感があった。
「いるな」
マエストロが言った。
確認ではない。
断定だった。
その瞬間、水面の一角が不自然に歪んだ。
風ではない。
波紋でもない。
そこに何かが触れたような揺らぎ。
だが姿は見えない。
ただ水面の反射だけが、ゆっくり移動していく。
「反射迷彩だ」
ロイドの声が低くなる。
「透明化じゃない。水と光で輪郭をぼかしてる」
その瞬間。
水面が爆ぜた。
巨大な何かが飛び出す。
岩壁を蹴り、空中へ回り込む。
カーボが先に動いた。
狼の体が横へ滑り、マットを押し退ける。
次の瞬間、透明な尾がさっきまでマットの頭があった場所を薙いだ。
岩が砕ける。
破片が飛ぶ。
ササミが羽を震わせた。
砕けた岩片を蹴り上げる。飛び散った石が空中の何かに当たり、そこに一瞬だけ巨大な輪郭が浮かび上がった。
長い胴体。
太い尾。
岩へ吸い付く指。
そして光を返す目。
「……でかいな」
マットが息を吐く。
ゲッコーは岩壁を滑り、水辺へ回り込む。姿は見えないのに、水面だけが存在を裏切る。
カーボが吠えた。
アミノが電撃を放つ。
青白い光が水面を走り、地下湖全体が一瞬だけ発光した。
その中心に、巨大な影。
「見えた!」
マットが踏み込む。
拳。
空振り。
尾が返る。
受ける。
衝撃が腕甲越しに骨へ届く。
重い。
だが押さえ込める。
マットは胴へ腕を回し、岩壁へ叩きつけた。
「アミノ、今だ!」
電撃が走る。
ゲッコーへ。
そしてマットへ。
筋肉が強制的に収縮する。
骨の奥まで震えが走る。
歯が鳴る。
だが腕は離れない。
その瞬間、尾が振られる。
死角。
避けきれない。
灰色の影が割り込んだ。
カーボだった。
尾が狼の肩を叩きつける。
岩壁へ激突する鈍い音が空洞に響いた。
だが狼は転がるように着地し、すぐに立ち上がる。
低く唸る。
そして仲間と敵の間に立った。
守る位置。
その瞬間だった。
狼の体が震えた。
毛が逆立つ。
骨格が軋む。
筋肉が内側から膨れ上がる。
体躯が一回り大きくなる。
牙が伸びる。
瞳が深い金色へ変わる。
「……進化?」
ロイドが息を呑む。
カーボが吠えた。
短く。
鋭く。
命令だった。
ササミが動く。
岩を砕く。
足場が崩れる。
ゲッコーの体勢が乱れる。
もう一度、吠える。
アミノが跳ねる。
電撃。
輪郭が浮かび上がる。
マエストロが踏み込む。
刃が胴を流す。
「今だ」
マットは息を吸う。
腹圧を固める。
足裏で岩を掴む。
地面を押す。
力が脚から背骨を通り肩へ集まる。
拳は振るものじゃない。
押し込む。
吐く。
拳がめり込む。
巨体が揺れる。
均衡を失う。
崩れる。
横倒しになる。
尾が一度痙攣し、止まった。
戦いは終わった。
空洞には再び静寂が戻る。
鍾乳石から落ちる水滴の音だけが響く。
ササミが岩をつつく。
やがて白く光る鉱石が現れる。
「……ミスリルだ」
ロイドの声が震える。
だがササミはそれを迷いなく飲み込んだ。
満足そうに鳴く。
嘴の縁に銀の光が走る。
マットが笑う。
「また強くなるな」
ロイドはまだカーボを見ていた。
「ダイアウルフじゃない」
首を振る。
「アルファ個体だ」
狼の周囲に自然と仲間が集まっていた。
ロイドが小さく笑う。
「群れを作る狼じゃない」
「群れを率いる狼だ」
「アルファダイアウルフ」




