第34話 岩場の亡霊
拳に、確かな手応えがあった。
それは岩でも骨でもない、しかし確実に“生きた何か”を捉えた感触であり、その瞬間、焚き火の揺らぎの向こう側で空間そのものがわずかに歪んだ。
そこにあるはずのない厚みが、ぬめるように岩壁へと逃げていく。その動きは滑らかで、しかし確かに質量を伴っており、視界の中で「見えていないはずのもの」が逆に浮き上がるような、奇妙な違和感を残していた。
「……いたな」
マットが低く呟いた瞬間、カーボが地を蹴って飛び出した。灰色の巨体が一直線に歪みへと迫り、その軌道は完璧だったはずだが、寸前で何かが“ずれた”。カーボの爪は岩壁を深く抉り、鈍い音を立てるだけに終わる。
逃げたのではない。位置そのものを変えられた。
「動いてる!」
マットが踏み込み、追う。しかし次の瞬間には別の場所で石が弾け、音が散る。ササミが即座に反応して岩壁ごと叩き砕くが、そこにも何もいない。存在だけが、周囲を撫でるように移動している。
アミノが低く身を縮め、空気を舐めるように舌を出す。そして一瞬、躊躇を挟んだのち、電撃を放った。
細い光が岩壁をなぞった瞬間、透明だったものにわずかな輪郭が浮かび上がる。
ぬらつく腹。
岩に吸い付く四肢。
長くしなる尾。
そして、異様に強い存在感を持つ目。
それは、巨大なトカゲだった。
「……トカゲか」
「いや、イモリ寄りだな」
マエストロの声には確信があった。
「ファントムゲッコー。岩場に棲む透明種だ」
再びそれは姿を消す。だが、もはや完全には隠れられていない。輪郭の“癖”が分かる。
次の瞬間、上から圧が落ちた。
透明な巨体が空気を押し潰すように降り、地面が沈む。マットは反射的に腕を上げて受けるが、その衝撃は予想以上に重く、腕甲越しに骨へと響いた。
その一撃で体勢が崩れる。
ゲッコーの尾が横薙ぎに振るわれ、視界が一瞬で流れる。マットの体は地面を転がり、砂と石に叩きつけられた。
「……っ!」
呼吸が詰まる。
思った以上に重い。速い。そして、読めない。
「油断するな!」
マエストロの声が飛ぶが、その直後、ササミが壁際で弾き飛ばされ、羽毛を散らしながら地面に叩きつけられた。カーボもまた、噛みついた瞬間に尾で払われ、体勢を崩す。
アミノの電撃が走るが、今度はかすめるだけで、決定打にはならない。
一度、完全に崩された。
マットは地面に手をつきながら、状況を立て直す。相手は視覚で捉えきれないうえに、質量もある。正面から殴り合う相手ではない。
だが。
“見えないわけではない”。
「……もう一回だ」
低く呟く。
カーボが立ち上がり、再び低く構える。今度は飛び込まない。動きを“待つ”。
ササミもまた、岩を叩き砕くのではなく、壁際を削るように移動し始める。
アミノは位置を変え、地面に降りて低い視点から空気を読む。
マエストロは動かない。
ただ一歩だけ位置をずらし、全体を見ている。
数秒。
沈黙。
そして。
石が動いた。
ほんのわずか。
その瞬間、カーボが動いた。直線ではなく、斜めに切り込む。逃げ道を塞ぐように位置を取る。
ササミが反応し、足場となる岩を叩き砕く。逃げ場が減る。
そこへ。
アミノの電撃。
今度は正確に、軌道をなぞるように走る。
透明が、崩れる。
輪郭が浮かぶ。
「そこだ!」
マットが踏み込む。
今度は焦らない。逃げる先を読む。身体をひねり、重心を落とし、全身を使って拳を叩き込む。
衝撃。
逃げない。
そこへ、マエストロが動いた。
一歩で距離を詰め、逃げる位置を先回りし、二本の刃で“空間”を斬る。存在を断つように。
動きが止まる。
「決めろ」
短い声。
マットは応えた。
腰を落とし、ねじり、力を集める。
そして。
マットは一度、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで冷えた夜気を満たし、次の瞬間、腹圧を静かに固める。踵で地面を捉え、土と石の感触を足裏で確かめるように踏み込み、ふくらはぎから太腿へ、張り詰めた筋が連鎖していく。
沈めた腰が、ゆっくりと前へ運ばれる。背中の筋が弓のようにしなり、肩甲が寄り、胸郭が開く。腕は振らない。全身で“押し出す”。
地面を押し返した力が、足首、膝、股関節を順に貫き、骨を伝って背骨を上がり、肩へ、肘へ、拳へと集約される。
吐く。
短く、鋭く。
その呼気と同時に、拳が“そこにあるはずの位置”へ滑り込む。視線ではなく、重心の移ろいで捉えた一点へ。
めり込む。
硬い。しかし弾かれない。内部に粘りのある抵抗があり、それを押し潰すようにさらに一歩、踏み込む。
ドン、と低く鈍い音が夜気を震わせた。
透明な巨体が、今度こそ完全に崩れ落ちる。
岩を巻き込み、動かなくなる。
静寂が戻る。
カーボが近づき、匂いを確かめる。
ササミがつつこうとして止められる。
アミノは静かに肩へ戻る。
マットは息を吐いた。
「……強かったな」
「だが、攻略はできる」
マエストロが言う。
「見えないだけで、やってることは生き物の範疇だ」
翌朝。
採掘場は静かだった。
ただの、何もない場所の静けさ。
作業長が深く息を吐く。
問題は解決した。
だが。
マットは足元の岩を見る。
配置が、ほんのわずかに違う気がした。
昨日とは。
わずかに。
「……気のせいか」
そう呟き、岩山を後にする。
もう、音はしなかった。




