第32話 見えない気配
採掘場の空気は、昼の明るさの中にあってもどこか冷えていた。
岩肌を削り出した斜面は白く乾き、ところどころに古い亀裂が走っている。足場として組まれた木材は風に晒されてささくれ立ち、使い込まれた縄は石粉をかぶって灰色にくすんでいた。空を見上げれば雲ひとつない。日差しは強いはずなのに、ここでは妙に熱が籠もらない。肌に触れるのは乾いた風と、砕けた石の匂いばかりだった。
マットは一歩、採掘場の中へ踏み込んだ。
足の裏で、小さな石がじゃり、と音を立てる。
その音だけが妙に大きく響いた。
「確かに……静かだな」
そう呟くと、先を歩くマエストロが軽く振り返る。
「採掘場ってのは、本来もう少し騒がしいもんだ」
岩を割る音。荷車のきしみ。人の怒鳴り声。金属がぶつかる音。そういう雑多な響きの中でようやく“仕事場”になる。だが、今ここにあるのは、作業を止めた場所特有の静けさではなかった。もっと別の、耳を澄ませたくなるような静けさだ。
入口で出迎えた作業長が、二人の後ろから不安そうな声をかける。
「昼はまだいいんだ。夜になると、もっと嫌な感じになる」
「嫌な感じ、か」
「音だけするんだよ。石が勝手に転がる音がな。人が見に行くと、何もいない。なのに、次の場所でまた音がする」
マエストロは顎を撫でた。
「人をからかってるみてえだな」
「からかわれて済むならいいんだけどな」
作業長は乾いた笑いを漏らしたが、その目は笑っていなかった。
マットは周囲を見渡す。
削り出された壁面のあちこちに、採掘跡が幾重にも残っている。ところどころに崩れ落ちた岩片。使われなくなった木箱。放置されたつるはし。どれも見慣れた“採掘場らしい物”ではある。だが、それらが妙に無人のまま整いすぎていて、かえって不自然だった。
「とりあえず奥を見て回るか」
マエストロが言う。
マットが頷くより早く、カーボが一歩前に出た。
灰色の大きな体が低く沈む。鼻先が地面近くを滑るように動き、落ちた石や土の匂いを一つずつ拾っていく。耳がぴくりと動くたび、筋肉の張った首筋がわずかに揺れた。
「頼りにしてるぞ」
マットが言うと、カーボは振り返りもせず低く喉を鳴らした。
その後ろを、ササミがのしのしと歩く。進化してから脚の筋肉は一回りどころではなく太くなり、地面を掴む力が目に見えて強くなっていた。白い羽のあいだには赤い線が走り、陽光を受けるたび、以前よりも鋭い印象を与える。
アミノはというと、今日もマットの肩に巻きついていた。細い体を二巻きほどして静かに留まっているが、何もしていないわけではない。舌を小さく出しては引っ込め、目に見えない何かを確かめるように空気を舐めている。
「こうして見ると、本当に変な一行だな」
マエストロがぼそりと言った。
「今さらでしょ」
「違いねえ」
笑いながら言うものの、その目は周囲の岩壁を見逃していなかった。
一行は採掘場の外縁から、ゆっくりと奥へ進んでいった。
最初の一時間は、何もなかった。
ただ、時折、小石が転がる。
それも一度だけではない。進むたびに、別の場所で、まるでこちらの動きに合わせるように、からり、と乾いた音がする。
振り向いても、そこには誰もいない。
マットは足を止めて、斜面の上を見上げた。
白茶けた岩の間に細い影が差している。風が吹けば砂が落ち、小石が揺れることくらいはあるだろう。頭ではそう思う。だが、それにしては音が一定しすぎていた。
「自然にしては、タイミングが良すぎるな」
マエストロも同じ結論に達したらしく、足元の石を軽く蹴って転がした。
「人が見てるって分かってる動きだ」
「魔物?」
「さてな」
答えたところで、カーボが急に立ち止まった。
前足を張るようにして地を捉え、鼻先を上げる。空気を吸い込む。だが、次の瞬間には困ったように低く唸った。
「どうした?」
マットが近づく。
カーボは岩壁の方を向いていた。だが、匂いを掴んだというより、匂いが散っていることに戸惑っているようにも見える。
「匂いはあるのか」
カーボが喉を鳴らす。
ある。けれど、定まらない。そんな風に見えた。
マエストロが肩をすくめる。
「いる。でも、いない。そんな顔してるな」
「やっぱり、そう見える?」
「長く獣見てりゃ分かる」
マットは少しだけ眉を寄せた。
カーボは追跡に優れている。匂いを見失うことはあっても、ここまで判断に迷うことは少ない。なら、相手が匂いを移しているのか、あるいは別の方法で位置を誤魔化しているのか。
その時、前方の岩陰から、小さく何かが弾ける音がした。
パチン。
マットの足元に、小さな石片が飛んでくる。
ほとんど反射で、ササミが前へ出た。白い羽が膨らみ、嘴が突き出される。ドゴン、と鈍い音がして、岩陰の一部が抉れた。だが、そこには何もいない。
砕けた石だけが、ぱらぱらと落ちてきた。
「……やっぱいるな」
マットが低く言う。
「しかも、こっちを見てる」
アミノが肩の上で小さく身を強張らせた。舌が素早く二度、三度と出入りする。直後、少し離れた位置で、今度は別の岩が弾けた。
バチン。
「アミノ」
声をかけると、蛇はその方向へ顔を向けた。だが、自分から電撃を放つことはしない。ただ、位置だけは分かっているらしい。
マエストロはその様子を見て笑みを薄くした。
「姿見せる気はねえか」
「慎重なのか、臆病なのか」
「両方だろ」
探索は続いた。
昼を過ぎるころには、採掘場の中央部から奥の切り立った斜面まで一通り見て回っていた。途中、作業に使うための木箱が何者かに荒らされたように壊れていたり、さっきまでなかったはずの石片が通路の中央に積まれていたりと、明らかに人の嫌がるやり方で痕跡が増えていく。
だが、敵の正体だけは見えない。
マットは額の汗を腕甲で拭った。
商店街で買ったばかりのそれは、まだ革の匂いが少し残っている。重さはほとんど気にならない。拳を握っても、前腕をひねっても邪魔にならず、確かにこういう用途には向いている。
「どうだ、それ」
マエストロが気づいて聞いた。
「いい感じ。邪魔にならない」
「だろ。殴るやつには余計なもん付けない方がいい」
「武器は使わない方がいいのかな」
「いらないな。碌に訓練もなしで振り回すより、そのっちの方がよっぽどいい」
「潔いな」
そんな軽口を叩きながらも、二人とも耳は周囲へ向いている。
カーボは先行と帰還を繰り返し、どうにか匂いの筋を掴もうとしていた。ササミは岩壁や地面をしきりにつつき、まるで石の内側に潜んだ何かの反応を確かめているようだった。アミノは一度だけ、頭上へ細い電撃を走らせた。電流は岩壁をかすめたが、そこにも敵の姿はない。
「見つからないくせに、逃げてる感じとも違うんだよな」
マットが言う。
マエストロは足元の石を拾い、軽く放り投げた。石は奥の暗がりへ消え、数拍遅れて、からん、と音を立てた。
「こっちの動き見て、距離を取り続けてる」
「だったら、見えてるってことだよな」
「だろうな。俺達には見えないが、あっちからは丸見え」
「やな感じ」
「そういうのを追うのも冒険者の仕事だ」
それでも、時間は過ぎる。
日はゆっくりと傾き始めていた。
岩肌に落ちる影が長くなり、白かった斜面は少しずつ冷えた色へ変わっていく。風は昼より強くなり、削れた岩の隙間を抜けるたび、ひゅう、と細い音を立てた。
作業長が不安そうにこちらを窺う。
「どうです」
「いるのはいる」
マエストロが答える。
「だが今日は見つからん」
作業長の顔色がさらに悪くなる。
「じゃあ、夜も……」
「むしろ夜の方が動くだろうな」
マエストロはそう言ってから、マットの方を見た。
「今日はここまでだ」
「引くの?」
「こういう依頼で一番やっちゃいけねえのは、焦って眠れなくなることだ」
マットは少し考えたが、すぐに頷いた。
ここまで数時間動きっぱなしだった。敵の姿は見えず、気配だけが周囲を掠めていく。こういう相手は、体力より先に集中力を削る。
マエストロが笑った。
「この手の依頼はな、しっかり休むこと」
背を向け、出口の方へ歩き出しながら続ける。
「どこでも寝られること。そいつも冒険者の務めだぜ」
マットは小さく笑った。
「それ、父さんが言うと説得力あるね」
「俺を何だと思ってる」
「どこでも寝る人」
「否定できねえな」
採掘場を出るころには、空はすっかり夕方の色を帯びていた。
外れの開けた場所に、小さな野営地を作る。大きな岩を風除けにし、地面を均して火を起こす。乾いた枝はすぐに火を拾い、ぱちぱちと心地よい音を立てはじめた。
湯を沸かし、簡単な干し肉とパンを齧る。ササミにはその辺の岩を投げておけば満足するし、アミノは火から少し離れた場所で丸くなる。カーボだけは、食事を終えてもしばらく周囲を見ていた。
「警戒ご苦労さん」
マットが頭を撫でると、カーボは静かに鼻を鳴らした。
火の向こうで、マエストロは胡坐をかいている。手にした木の枝で地面に適当な線を描きながら、今日の動きを反芻していた。
「どう思う?」
マットが聞く。
「姿は隠す。音は出す。匂いは散る。嫌がらせだけは妙に上手い」
枝を折る。
「頭の回る相手だ」
「魔物?」
「まだ何とも言えん」
マエストロは火を見つめた。
「だが、ただの獣ならもう少し単純だ。逆に人間にしちゃ、やり口が妙だ」
「じゃあ中間?」
「便利な言葉だな」
笑う。
その横で、ササミが岩を一つ飲み込み、満足そうに小さく鳴いた。嘴の縁が焚き火の赤を受けて鈍く光る。アミノは目を閉じたまま動かない。だが眠ってはいないらしく、時折、舌だけが小さく出た。
夜はゆっくり更けていく。
空には星が出ていた。街の灯りから少し離れているぶん、夜空は思っていたよりも深い。風は冷えるが、不思議と嫌な寒さではない。火のそばなら十分にしのげる。
マットは敷いた布の上にごろりと転がった。
「ほんとに寝るの?」
「寝る」
「敵いるかもしれないのに」
「だから寝るんだよ」
マエストロはそう言って、背中を岩に預けた。
「休める時に休め。寝られる時に寝ろ。明日も同じように探すならなおさらだ」
その声は冗談めいていたが、内容は真面目だった。
マットは目を閉じる。
耳には火の音。風の音。カーボが歩く足音。
そして。
少し遠くで。
ゴン。
低い音がした。
マットが薄く目を開ける。
焚き火の向こうで、マエストロも同時に顔を上げていた。
採掘場の方角ではない。
もっと外側。
岩山の暗がり、その先から聞こえた音だった。
カーボが低く唸る。
ササミが首を上げる。
アミノは静かに頭をもたげた。
「……範囲が広いな」
マットが小さく呟く。
マエストロは笑みを消して、暗がりの方を見た。
「どうやら、採掘場の中だけの話じゃねえらしい」
風が吹く。
火が揺れる。
その向こうにある闇は、昼間よりもずっと深く見えた。
誰も動かない。
ただ、次の音を待つように、夜だけが静かに息を潜めていた。




