第22話 夜の分析
夜の村は静かだった。
昼のあいだ畑を揺らしていた風も、今はもう落ち着いている。遠くで虫が鳴き、家々の窓から漏れていた灯りも、一つまた一つと消えていく。空を見上げれば、雲の切れ間に星がいくつか瞬いていた。
そんな夜更け。
家の脇、薪置き場のそばに据えた古い木箱を卓代わりにして、マエストロは一人で酒を飲んでいた。
栓を抜いた瓶と、使い込まれた木杯。月明かりに照らされた横顔は、昼間のだらしない酔っ払いのそれではなく、どこか昔の面影を残している。
足音が一つ、家の戸口から近づいてきた。
エルザだった。
肩に羽織を引っかけ、少しだけ疲れた顔をしている。
「まだ飲んでるの?」
呆れたような声だったが、追い払う気配はない。
マエストロは杯を軽く持ち上げた。
「今日は飲む日だろ」
その返事に、エルザは小さく息を吐いた。
「……まあ、否定はしないわ」
そう言って、向かいの木箱に腰を下ろす。
マエストロは黙って杯をもう一つ差し出した。エルザは少しだけ迷ったようにそれを受け取り、瓶から酒を注ぐ。
しばらく二人は何も言わなかった。
ただ、虫の声と、時折薪のはぜる小さな音だけが夜気に混ざっている。
沈黙を破ったのはエルザだった。
「……見たでしょ」
マエストロは笑った。
「見たな」
「筋力三百八十」
その数字を口にした途端、エルザは自分で自分の額を押さえた。
「八歳の数値じゃないわ」
「だろうな」
マエストロはあっさり頷く。
「普通のDランク冒険者だって、あんな数値はそうそう出ねえ」
「普通どころか、あの年齢で比較対象を探す方が難しいわよ」
エルザは杯を口元まで運び、少しだけ酒を含んだ。
強い酒だ。喉に熱が落ちていく。
「レベル三十五、筋力三百八十、耐久三百五十六。しかも魔力量までそこそこある。あれが本当に人間の成長の範疇に収まってるのか、正直もう分からないわ」
「収まってねえだろ」
マエストロは笑いながら言う。
「少なくとも普通の育ち方はしてねえ」
「それはそうね」
エルザも否定しなかった。
普通の子供は、山狼と殴り合わない。
普通の子供は、コカトリスを掘削要員にしない。
普通の子供は、ダンジョンの落下天井を見てスクワットを始めたりしない。
そこまで考えて、エルザは深く息を吐いた。
「笑い話みたいだけど」
「笑えないのよね」
「まあ、そこは分かる」
マエストロは杯の中身を一気に煽った。
「アルエも大概だ。火魔法A、魔法熟練A-。十一であれは早い」
「早いどころじゃないわ。学院にいれば、確実に目をつけられる水準よ」
「リーリヤもな」
「ええ」
エルザは頷く。
「あの子は戦闘向きの数値ではないけど、器用さが高すぎる。水魔法の制御に関しては、もう遊びの域を超えてる」
夜風が二人の間を抜ける。
遠く、納屋の方で家畜が身じろぎする気配があった。
マエストロはしばらく黙り込んだあと、ふと空を見上げた。
「……でもよ」
「お前、今日もっと気にしてたことがあるだろ」
エルザの目が少しだけ細くなる。
「オーガのこと?」
「それもだ」
マエストロは頷く。
「お前が本気を出したことも含めてな」
そこに触れられると、エルザは少しだけ表情を硬くした。
杯を持つ指先がほんのわずかに止まる。
「久しぶりだったわ」
小さな声だった。
「……あそこまで解放したのは」
月に一度。
たった数時間。
レベルドレインの呪いが緩み、本来の力に近い領域へ戻れる僅かな時間。
それがどれほど貴重で、どれほど危ういものかを、マエストロは知っている。
「本来なら、オーガ程度にあんなに消耗する相手じゃない」
エルザは乾いた笑みを浮かべた。
「でも今の私は違う。呪いに縛られてる状態で、数時間だけ無理やり本来の力を引っ張り出してるようなものだもの。そりゃ反動も出るわ」
「今日のはきつかったか」
「きつかったわね」
エルザは素直に認めた。
「終わったあと、指先一本動かすのも面倒なくらいには」
マエストロは新しく酒を注ぎながら言う。
「それでも勝った」
「勝てただけよ」
エルザは首を振る。
「胸を張れる勝ち方じゃない。本来の私なら、あんな相手にあれほど時間を使わない」
言ってから、エルザは少しだけ目を伏せた。
「……分かってるの。贅沢な言い分だって」
「でも、あの感覚を一度知ってるとね。今の自分がずいぶん中途半端に思えるのよ」
マエストロはそれに対して、すぐには何も言わなかった。
軽い冗談で流してもよかったが、そうしなかった。
そういう夜ではないと分かっていたからだ。
「未だに分からねえな」
やがて、マエストロは低い声で言った。
「誰が、何のために、あんな呪いをかけたのか」
「分かってたら解いてるわよ」
エルザは苦く笑う。
「古い呪いだってことくらいしか分からない。今の時代の魔術体系とは噛み合ってない。たぶん、相当昔の……もう残っていない系統の術式」
「厄介だな」
「ええ。厄介よ」
少し沈黙が落ちた。
杯の酒面に月光が揺れる。
その静けさの中で、今度はマエストロが口を開いた。
「だが、もっと厄介なのは別だ」
「……村の周囲のこと?」
エルザが先に言った。
「そうだ」
マエストロの顔つきがわずかに引き締まる。
「コカトリス。オーガ。どっちも本来この辺りにふらっと出てくるようなモンスターじゃねえ」
エルザも頷いた。
「普通ならもっと奥。山の深部か、ダンジョンの深層か、魔力の濃い地域。少なくとも村の近くをうろついていい相手じゃない」
「なのに出た」
「ええ」
しかも一体だけではない。
偶然と片付けるには、少し出来すぎている。
「一体何がどうなってるんだろうな」
マエストロがぽつりと言った。
その声音には、珍しく軽さがなかった。
「さあね」
エルザは杯の縁を指でなぞる。
「ただ、良い傾向じゃないことだけは確か」
「魔力の流れが変わってるのかもしれないし、ダンジョンの影響かもしれない。あるいはもっと別の何かか」
「別の何か、ね」
マエストロは苦笑した。
「そういう“別の何か”ってのは大体ろくでもねえ」
「でしょうね」
夜風がまた吹いた。
少しだけ冷たい。
家の中では、子供たちはもう寝ているはずだ。少なくとも、表向きには。
マエストロはふっと口元を緩めた。
「まあ、その“ろくでもねえ”の中で育ってるのが、あいつらだがな」
エルザも、思わず小さく笑った。
「否定できないのが嫌ね」
「マットは完全に環境を利用してやがる」
「利用というか、楽しんでるわね」
「違いあるか?」
「……ないわね」
二人の間に、今度は少しだけ柔らかい空気が流れた。
マエストロは肩を回し、何気ない調子で言う。
「しかしまあ、あそこまでやられると少し羨ましくもあるな」
「何が?」
「鍛え直しだよ」
マエストロは笑った。
「俺たちも今から付き合ってみるか?」
エルザは即座に顔をしかめた。
「冗談言わないで」
「あんなのに付き合ってらんないわ」
迷いのない返答だった。
マエストロは吹き出す。
「間違いない」
「でしょ」
そう言いつつ、マエストロは杯を傾けながら、家の裏手――洞窟ジムのある方角へ何気なく視線を向けた。
夜の闇の向こうに、その姿は見えない。
だが、あの中にはきっと、岩の匂いと汗の匂いが染みついた、頭のおかしい訓練場がある。
ダイアウルフがいて、コカトリスがいて、火の玉が飛び、水刃が岩を切り裂き、子供たちが本気で強くなろうとしている場所。
普通なら笑い飛ばすような光景だ。
だが。
マエストロはほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心の中で思った。
――少しそれもありかな。
もちろん口には出さない。
出したら、明日から本当に巻き込まれる。
それはそれで面白そうだとも思ったが、今はまだ黙っておくことにした。
「何よ、その顔」
エルザが怪訝そうに見る。
「いや」
マエストロは笑ってごまかす。
「何でもねえよ」
エルザは少しだけ不審そうにしたが、それ以上は追及しなかった。
代わりに酒を飲み干し、夜空を見上げる。
「……あの子たち」
「どこまで行くのかしらね」
マエストロも同じように空を見た。
星は静かに瞬いている。
「さあな」
短く言ってから、少しだけ笑う。
「だが、面白くはなりそうだ」
その言葉は、夜の中へ静かに溶けていった。




