第18話 鍛え方が足りない
村へ戻ったのは、夕方を過ぎた頃だった。
森の出口が見えた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気がようやく抜けた気がした。
エルザは俺の肩に体重を預けるようにして歩いている。普段なら考えられないほど力が抜けていて、足取りも重い。
「大丈夫?」
アルエが心配そうに覗き込む。
「大丈夫よ。少し魔力を使い過ぎただけ」
そう言って笑ってみせるが、顔色は明らかに悪い。
カーボもまだ本調子ではないらしく、普段より静かに歩いている。コカトリスも羽を畳み、妙におとなしい。
村の門が見えると、見張りの男がこちらを見て目を丸くした。
「おい、どうした!? 怪我してるじゃないか!」
「ちょっと森で大物に会ってね」
エルザが軽く手を振る。
「大物?」
「オーガ」
その一言で、男の顔色が変わった。
「……は?」
「森の奥に一匹いたわ。もう倒したけど」
男はしばらく口を開けたまま固まっていた。
その反応を見ながら、俺はぼんやりと考えていた。
倒した。
確かに最後はエルザが倒した。
だが――。
俺は、何もできなかった。
◇
夜。
ジムの洞窟。
外の風が岩の隙間を抜け、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
俺は石の床に座り込み、拳を見つめていた。
まだ少し痛む。
あの時、確かに全力で殴った。
だが。
オーガは一歩も動かなかった。
あの感触を思い出す。
硬かった。
というより――動かなかった。
まるで岩を殴ったようだった。
「……」
隣でカーボが寝そべっている。
さすがに今日は静かだ。
コカトリスも壁際で羽を休めている。
アルエは奥で魔法の練習をしていたが、今日は火球を出すのもやめて座り込んでいる。
全員、どこか疲れていた。
俺は拳を握る。
ゆっくりと整理する。
まず一つ。
俺は、オーガに力負けした。
それは間違いない。
あの怪物の腕。
あの筋肉。
あれに比べたら、俺の拳なんて子供みたいなものだ。
つまり。
力負けしたということは。
筋力で負けたということだ。
ここまでは分かる。
問題は、その先だ。
俺は天井を見上げる。
岩の天井は変わらずそこにある。
「……あそこまで行けるのか?」
ぽつりと呟く。
あの怪物の筋肉。
あの腕。
あそこまで、人間の体で辿り着けるのか?
普通に考えれば無理だ。
だが。
俺は思い出す。
今日の戦いを。
エルザの動きを。
あの速さ。
あの力。
オーガの腕を一瞬で斬り落とした斬撃。
あれは、どう見ても普通じゃない。
しかもエルザは言っていた。
「本来なら準備運動」
つまり。
あれでも本気じゃない。
俺はゆっくりと体を起こした。
「なるほど」
思考が繋がる。
オーガは強い。
だが。
エルザはそれより強い。
そしてエルザは――人間だ。
つまり。
「人間でも、あそこまで強くなれるってことだよな」
アルエが顔を上げる。
「え?」
「だからさ」
俺は立ち上がる。
拳を握る。
「この世界の人間って、元の世界と違って際限なく強くなれるんじゃないか?」
アルエがしばらく黙った。
そして。
「……どういう理屈?」
「簡単だよ」
俺は指を一本立てる。
「オーガに力負けした」
もう一本立てる。
「つまり筋力で負けた」
三本目。
「でもエルザは勝った」
四本目。
「つまり人間でもあそこまで行ける」
五本目。
「結論。筋トレすれば到達可能」
沈黙。
洞窟の空気が止まる。
アルエがゆっくりと口を開いた。
「……ちょっと待って」
「何?」
「いろいろ飛ばしてない?」
「飛ばしてない」
「飛ばしてるよ!」
アルエが頭を抱える。
「エルザさんは魔法剣士でしょ!?」
「うん」
「筋肉関係ないじゃん!」
「関係ある」
「なんで!?」
俺は真面目に考える。
そして頷く。
「たぶん基礎は筋肉」
「絶対違う」
アルエが断言した。
だが。
俺の中ではもう結論は出ていた。
この世界では、人間は強くなれる。
際限なく。
ならば。
「鍛え方が足りないだけだな」
その時、洞窟の入口の方から小さく息を吐く声が聞こえた。
「……何を言い出すかと思えば」
振り向くと、岩壁にもたれるようにしてエルザが立っていた。まだ顔色は悪いが、いつの間にか目を覚ましたらしい。
「母さん?」
「一応聞くけど」
エルザは腕を組む。
「オーガに殴られて吹き飛ばされた結論が、それなの?」
「そうだけど」
俺が真面目に答えると、エルザはしばらく黙った。
そして、額を押さえる。
「……理屈はめちゃくちゃね」
「でも」
少しだけ笑った。
「嫌いじゃないわ、その発想」
俺は拳を鳴らす。
カーボが顔を上げた。
コカトリスも片目を開く。
「オーガに勝てるくらいまで鍛える」
アルエが呆れた顔をした。
「……正気?」
「正気だよ」
俺は笑う。
「だって可能性は証明された」
「だから俺もやる」
アルエはしばらく俺を見ていた。
そして小さく息を吐く。
「……分かった」
「私もやる」
「え?」
「悔しいから」
アルエは立ち上がる。
手のひらに小さな火を灯した。
「次にオーガに会ったら、今度は私が焼く」
火がゆらゆら揺れる。
さっきより少し大きい。
俺はそれを見て頷いた。
「いいね」
「じゃあ決まりだ」
俺は洞窟の中央に立つ。
腕を組む。
「ジムを強化する」
「え?」
「オーガ対応トレーニングだ」
「待って」
「まず負荷が足りない」
「待って」
「あと器具も足りない」
「待ってってば!」
アルエが叫ぶ。
だが俺は止まらない。
もう決めた。
この世界には上がある。
ならば。
そこまで鍛えるだけだ。
俺は拳を握った。
「オーガを倒す」
アルエが額を押さえる。
「いや、倒したじゃん」
「自力で」
「……」
しばらく沈黙。
そしてアルエがぼそっと言う。
「このジム、壊れない?」
俺は洞窟を見渡す。
岩の壁。
天井。
広い空間。
「……拡張するか」
俺がそう呟いた瞬間、洞窟の空気が少しだけ変わった気がした。
カーボがゆっくりと立ち上がる。
コカトリスも羽を広げた。
アルエは額に手を当てたままこちらを見る。
「……まさか本気?」
「本気だよ」
俺は洞窟の壁を見渡す。
岩の壁。
低い天井。
走れる距離も短い。
今までここでトレーニングしてきたが、よく考えればこれはただの洞窟だ。
「まず狭い」
「うん、狭いね」
アルエが即答した。
「そもそもジムじゃないし」
「それは今から変える」
俺は拳を握る。
「まずは広さだ」
「拡張する」
「いや待って」
アルエが手を上げた。
「どうやって?」
俺は後ろを振り返る。
「コカトリス」
怪鳥が首を傾げた。
「掘れるよな?」
コカトリスは一度地面を掻いた。
次の瞬間、鋭い爪が岩壁を削る。
石が砕け、土砂が崩れ落ちる。
「おお」
思わず声が漏れる。
「いけるな」
「いけるんだ……」
アルエが呆然と呟く。
削られた岩が山のように積み上がる。
その横でカーボが尻尾を振った。
「よし」
「カーボ」
俺が顎で示す。
「運搬だ」
カーボは一声鳴くと、土砂の山に突っ込んだ。
口で岩を咥え、洞窟の外へ運び出す。
巨大な岩でもまるで小石のように持ち上げていく。
「……普通逆じゃない?」
アルエが言う。
「普通は人が掘るんじゃない?」
「普通じゃオーガには勝てない」
「理屈が全部それになるの?」
作業はどんどん進んだ。
コカトリスが岩を削る。
カーボが土砂を運ぶ。
洞窟の奥が少しずつ広がっていく。
だが途中で俺は腕を組んだ。
「……だめだな」
「何が?」
「これじゃ効率が悪い」
「今さら!?」
俺は地面に転がっていた岩を見た。
今までトレーニングでは岩を持ち上げたり、丸太を担いだりしていた。
だが。
「重りを持つだけじゃ効率が悪い」
「効率?」
「負荷の調整ができない」
俺は岩とロープを拾い上げた。
「こうすればいい」
洞窟の天井の突起にロープを通す。
片側に岩を括り付ける。
もう片側を手に持つ。
引く。
岩が持ち上がる。
「……なるほど」
アルエが目を細めた。
「滑車?」
「可変式ウェイトマシンだ」
「言い方が変わっただけだよね?」
俺は頷く。
「これなら重りを変えれば負荷も変えられる」
岩を追加する。
さらに重くする。
「いいな」
思わず笑みが浮かぶ。
「これでトレーニングの幅が広がる」
「ジムっぽくなってきたね……」
アルエはしばらくその装置を見ていた。
そして小さく息を吐く。
「分かった」
手を前に出す。
炎が灯る。
「私も手伝う」
火球が岩壁にぶつかる。
爆発。
岩が砕ける。
「発破代わりね」
「いいな」
作業はさらに加速した。
そこへ新しい声が聞こえた。
「楽しそうなことしてるじゃない」
振り向く。
リーリヤだった。
洞窟の入口に立っている。
「姉さん?」
「村から振動が聞こえるのよ」
リーリヤは岩壁を見渡した。
そして。
「なるほど」
指先を前に出す。
水が細く集まる。
次の瞬間。
水流が岩を切り裂いた。
石が綺麗に切断される。
「ウォーターカッターよ」
アルエが驚く。
「そんな使い方できるの!?」
「練習してたの」
こうして。
掘削はさらに進む。
コカトリスが削り。
アルエが爆破し。
リーリヤが岩を切り出す。
カーボが運ぶ。
そして俺が器具を作る。
洞窟は日に日に広がっていった。
その様子を。
入口からエルザが見ていた。
腕を組み。
しばらく黙る。
そして深く息を吐いた。
「……何をしてるのかしら、この子たちは」
翌日。
さらに翌日。
洞窟はもう、最初とは別の場所のようになっていた。
走れる距離。
吊り下げ式ウェイト。
岩のベンチ。
丸太スクワット台。
完全にジムだ。
エルザは額を押さえた。
「……止めても無駄よね」
そして数日後。
村へ一人の男が戻ってきた。
「いやー飲んだ飲んだ」
マエストロだった。
街に置いてきたはずの父は、酒臭い息を吐きながら歩いてくる。
「お、帰ってきてたのか」
俺たちを見つける。
「ジム作ってる」
「ジム?」
洞窟の中を覗き込む。
広い空間。
巨大な岩の器具。
吊り下げ式ウェイト。
そしてトレーニングしている俺。
しばらく沈黙。
次の瞬間。
マエストロは腹を抱えて笑い出した。
「はははははははは!!」
「なんだこれ!!」
「前に見た時よりも設備が充実してるな!」
洞窟の奥でカーボが尻尾を振る。
コカトリスが鳴く。
アルエが肩をすくめる。
リーリヤが微笑む。
エルザは遠くを見ていた。
こうして。
俺たちのジムは。
さらにとんでもない場所へと進化していくのだった。




