第17話 怪物
森の奥へ続く足跡は、最初に見つけた瞬間から異様だった。
地面に刻まれた跡は、人の胴ほどもある。踏み込まれた土は深く沈み込み、周囲の草は根元から押し潰されている。まるで巨大な重りを落としたかのようだった。
俺はしゃがみ込み、指でその縁をなぞる。
「……でかいな」
隣でアルエも同じように足跡を見下ろしていた。
「ボアじゃないね」
「うん。こんなの、普通の獣じゃない」
カーボは低く鼻を鳴らし、周囲の空気を探るように首を振る。コカトリスも羽を半分ほど広げ、地面を軽く蹴りながら警戒していた。
森は静まり返っている。
風もほとんどない。
だが静けさの奥に、何か重たい気配が沈んでいる。
この先に――確実に、何かがいる。
「追ってみる?」
アルエが顔を上げた。
俺は足跡をもう一度見てから立ち上がる。
「いいね」
思わず笑みが浮かんだ。
「Dランクの依頼じゃ、ちょっと物足りないし」
アルエも笑った。
「だよね」
カーボが尻尾を振る。
コカトリスは地面を蹴り、短く鳴いた。
俺たちは自然と歩き出していた。
足跡を辿りながら、森の奥へ進んでいく。
枝が折れ、幹が削れ、ところどころ地面がえぐれている。足跡だけではなく、進んだ跡そのものが道のように残っていた。
森の奥に進むほど、その痕跡は激しくなる。
そしてやがて、視界が開けた。
そこは森の中とは思えないほど荒れていた。
太い木が何本も倒れている。岩は砕け、地面には深い亀裂が走っていた。嵐が通り過ぎた後のような光景だった。
だが、自然の力ではない。
これは――暴力の跡だ。
そして。
その中心に、それは立っていた。
オーガ。
三メートルを優に超える巨体。
岩のように盛り上がった筋肉が、全身を鎧のように覆っている。腕は丸太のように太く、指一本で人の頭ほどの太さがある。
その怪物が一歩踏み出すだけで、地面が鈍く沈んだ。
足元には、へし折られた木が何本も転がっている。
幹はねじ切られたように裂けていた。
それをやったのが、この怪物なのだと嫌でも分かる。
そしてその手には、大岩が握られていた。
人なら抱えることすら難しい岩を、まるで石ころのように持っている。
「……」
アルエが小さく呟いた。
「でかい」
俺はその姿を見ながら、わずかに笑った。
「まあでも」
「四人いればいけるだろ」
アルエも頷く。
「だよね」
その時点では、本気でそう思っていた。
完全な慢心だった。
オーガがゆっくりとこちらを向く。
赤黒い目が、俺たちを捉えた。
そして次の瞬間。
森の空気が震えた。
咆哮。
空気そのものが揺れるほどの声だった。
アルエがすぐに魔力を練る。
「来るよ!」
「ファイアボール!」
火球が一直線に飛ぶ。
怪物の胸に直撃した。
爆炎が広がり、煙が舞い上がる。
アルエが息を呑む。
「やった?」
煙がゆっくりと晴れる。
そこに立っていたのは――同じ姿のオーガだった。
火の痕跡はある。
だが、傷と呼べるほどのものは見当たらない。
「……え?」
アルエの声が震えた。
火球は確かに直撃した。
爆発も起きた。
それなのに、あの怪物はほんの少し焦げただけで立っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に嫌な感覚が落ちた。
強い。
いや――それだけじゃない。
俺たちが今まで戦ってきた相手とは、まるで格が違う。
その直後。
オーガがゆっくりと足を上げた。
ただの一歩だった。
だが、その足が地面に落ちた瞬間、鈍い振動が足元から伝わってきた。土が沈み、枯葉がふわりと浮き上がる。
重い。
その一歩だけで理解させられる。
こいつは――今まで戦ってきたどの魔物とも違う。
巨体が信じられない速度で迫る。
「カーボ!」
助けに入ろうと足が動く。
だが体が追いつかない。
あまりにも、一瞬だった。
灰色の影が飛び出した。
カーボだ。
地面を蹴った瞬間、もうオーガの喉元へ届く距離にいた。これまで何度も見てきた突進。森の魔物程度なら、その牙が届いた時点で終わっていた。
だが――。
オーガは動かなかった。
いや、動いていないように見えた。
巨大な体はその場に立ったまま、ただ腕だけがわずかに動く。
まるで落ちてくる木の実でも受け止めるかのような、雑な動きだった。
次の瞬間。
カーボの姿が消えた。
視界が一瞬遅れて追いつく。
オーガの手の中に、灰色の体が収まっていた。
「グルッ!?」
そして。
投げられる。
巨体が宙を舞い、森の木に激突した。
鈍い音と共に、カーボが地面に落ちる。
「カーボ!」
すぐにコカトリスが飛びかかった。
羽を広げ、鋭い嘴を突き出す。
連続で打ち込まれる攻撃。
だが。
オーガの手が羽を掴んだ。
次の瞬間、怪物は腕を振る。
コカトリスの体が地面へ叩きつけられた。
地面が割れる。
コカトリスは動かない。
「そんな……」
アルエが後ずさる。
俺は前に出た。
正直に言えば、怖かった。
カーボも、コカトリスも、あっという間に倒された。
それでも、このままアルエを背後に置いて下がるわけにはいかない。
拳を握る。
筋肉に力を込める。
踏み込む。
渾身の一撃を放つ。
拳がオーガの腹へ突き刺さった。
確かな手応え。
だが。
怪物の体は揺れない。
オーガは一歩も動かなかった。
「……嘘だろ」
全力だった。
これまでのトレーニングも、カーボとの戦いも、村での戦闘も。
全部を込めた一撃だった。
それなのに。
オーガは微動だにしない。
その事実が、ゆっくりと胸に沈んでくる。
横を見る。
カーボは木の根元で倒れている。
コカトリスも地面に伏したままだ。
背後にはアルエ。
さっきまで強気だった表情が、今は青ざめている。
まずい。
本当に。
勝てないかもしれない。
胸の奥で、冷たいものが広がる。
それでも。
ここで退いたら、アルエがやられる。
俺は歯を食いしばった。
一歩、前に出る。
逃げない。
勝てなくても。
ここは――俺が立つ場所だ。
その瞬間。
オーガの拳が動いた。
視界が追いつかない。
気付いた時には衝撃が体を打ち抜いていた。
俺の体が宙を舞う。
岩に叩きつけられ、肺の空気が一瞬で抜けた。
呼吸ができない。
「マット!!」
アルエの叫びが聞こえる。
だが体が動かない。
オーガの足音が近づいてくる。
重く、ゆっくりと。
確実に。
その時だった。
振り下ろされるはずだった拳が、途中で止まった。
硬い金属音が森に響く。
オーガの拳の前に、一本の刃が差し込まれていた。
ゆっくりと、その人物が前に出る。
「下がりなさい」
エルザだった。
剣を構え、俺たちの前に立つ。
オーガが唸り、腕を振り上げる。
巨体から放たれる拳。
だが次の瞬間、エルザの姿が視界から消えた。
次に見えた時には、すでにオーガの腕の横に立っていた。
遅れて血が噴き出す。
腕が滑り落ちた。
俺は目を見開く。
動きがまったく追えない。
「今は……少しだけ全力を出せる」
エルザの体から、圧倒的な気配が広がる。
空気が張り詰めた。
オーガが怒り狂い、突進する。
地面が砕けるほどの一撃。
だがそこにエルザはいない。
背後で剣が閃く。
深い斬撃が走る。
さらに二撃、三撃。
巨体に傷が刻まれていく。
まるで力の差を見せつける戦いだった。
俺は呆然と見ていた。
これが――母の本気。
オーガが最後の力で突進する。
巨体ごとぶつかるつもりだ。
エルザは一歩だけ前に出た。
剣を構え、静かに振るう。
一閃。
巨体が揺れる。
やがてオーガの体はゆっくりと崩れ落ちた。
地面に沈み、動かなくなる。
森に静寂が戻った。
「……はぁ」
エルザが膝をつく。
剣を地面に突き立て、体を支えた。
顔色が悪い。
呼吸も荒い。
「母さん!」
俺は駆け寄る。
エルザは苦笑した。
「言ったでしょ。長くは戦えないの」
空を見上げ、息を吐く。
「本来なら……こんな相手、準備運動なんだけどね」
その言葉を聞きながら、俺は思う。
世界は広い。
そして強さには――果てがない。
だが。
だからこそ。
ここで終わるわけにはいかない。
俺は、もっと強くなる。
この怪物を軽くねじ伏せた母の背中に、いつか追いつくために。
こうして俺たちはオーガを倒した。
だがその代償として、エルザは完全に力を使い果たしていた。
俺たちは彼女を支えながら、急いで村へ戻ることになったのだった。




