第145話 ジムの炎 【挿絵付き】
村外れの洞窟は、もはやただの洞窟ではなかった。
入口をくぐれば、天井の高い広い空間が奥へと続き、壁面には岩を削って作られた棚や器具が整然と並んでいる。天井からは太い鎖が垂れ下がり、その先には人の背丈ほどもある岩塊が吊るされていた。床には丸く削られた石のプレートが積み上げられ、岩盤を削って作られたスクワットラックのような柱が何本も立っている。
村の人間が見れば、洞窟というよりも巨大な石造りの鍛錬場にしか見えないだろう。
それが――マットのジムだった。
カーボの背から降りたマットは、洞窟の空気をゆっくりと吸い込んだ。
岩の匂いと、わずかに残る汗の匂い。それに混じって、どこか整えられた空間特有の静けさがある。
床に散らばっているはずの細かな石くずも見当たらない。
「……きれいだな」
思わずそう呟くと、隣に立っていたミリアが得意そうに胸を張った。
「うん。よくお掃除のお手伝いしてたの」
その言葉に、マットは少し驚いたように目を丸くする。
「ミリアは来たことあるのか?」
「うん。リーリヤ姉ちゃんと来たり、カーボと来たり。ササミもたまに来るよ」
「そうか」
マットはふっと笑うと、ミリアの頭にぽんと手を置いた。
「ありがとな」
軽く撫でると、ミリアは嬉しそうに目を細める。
「えへへ。どういたしまして」
しばらく洞窟の中を見回していたマットだったが、ふと肩を回す。
そして、腕を組んで天井を見上げた。
体の奥から、むずむずとした衝動が湧き上がってくる。
この場所に来ると、どうしても抑えきれない感覚。
筋肉が――騒ぐ。
「どうしたの? お兄ちゃん」
ミリアが首を傾げる。
マットは少し照れくさそうに頭をかいた。
「やはり、ここに来るとな」
「筋トレするの?」
「せっかくだしな」
そう言って、マットは近くに置かれていた巨大な岩のウェイトを持ち上げた。
肩に担ぎ、ゆっくりと腰を落とす。
岩の重みが骨を通して体の奥まで伝わる。だが、それがむしろ心地いい。
ミリアはその様子を見て、少し楽しそうに笑った。
「じゃあ、重くする?」
「できるのか?」
「うん。ちょっとだけだけど」
ミリアは手をかざす。
空気がわずかに揺れ、岩のウェイトがじわりと重さを増した。
重力魔法。
マットの膝がわずかに沈む。
「……いいな」
低く呟きながら、マットはさらに腰を落とす。
岩が軋み、筋肉が唸る。
ミリアは嬉しそうに手を動かしながら言った。
「もう少し?」
「頼む」
その日、洞窟にはしばらくの間、岩と岩がぶつかる音と、低く唸る呼吸音が響き続けた。
ミリアは魔法で重さを調整しながら器具を動かし、マットはその負荷を受け止めながらひたすら体を鍛え続ける。
いつしか二人とも夢中になり、時間の感覚さえ曖昧になっていた。
気が付けば、洞窟の外はすっかり暗くなっていた。
マットは大きく息を吐き、岩を床へ戻す。
「……今日はこのくらいにするか」
肩を回すと、体中に程よい疲労が広がる。
ミリアもぺたりと座り込み、ぐったりと背中を岩壁にもたれさせた。
「つかれたぁ……」
「よく付き合ったな」
マットは笑いながらカーボの背を軽く叩く。
カーボはすでに横になっており、巨大な体を丸めて静かに尻尾を揺らしていた。
結局、マエストロの説教がいつ終わるのかも分からない。
下手に帰れば飛び火する可能性もある。
マットとミリアは顔を見合わせ、小さく肩をすくめた。
「……今日はここで寝るか」
「うん」
二人はカーボの柔らかい腹毛に寄りかかる。
洞窟の空気はひんやりとしているが、カーボの体温は心地よかった。
程よい疲れの中で、二人はいつの間にか眠りに落ちていた。
――翌朝。
こつん。
こつん。
頬をつつく妙に硬い感触で、マットは目を覚ました。
「ん……?」
眠たい目をこすりながら顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは――巨大な鳥の顔だった。
水晶のように煌めく羽毛が、洞窟の入口から差し込む朝日に反射して輝いている。
鋭い目。
堂々としたくちばし。
初めて見るはずなのに、その顔にはどこか懐かしさがあった。
「ササミー? あんたは別にここに用事ないでしょー?」
洞窟の入口から、別の声が響く。
マットにとって、それもまた懐かしい響きだった。
「朝から騒がしいな」
「騒がしいって何よ。こっちは散々世界中旅して……」
「へ?」
ササミに突かれているマットの姿を見た瞬間、アルエは素っ頓狂な声をあげて固まった。
その声でミリアも目を覚ます。
眠そうに目をこすりながら顔を上げ、アルエを見つけるとぱっと表情を明るくした。
「あ、アルエ姉ちゃんだ。おはようございます」
「アルエも居たのね。おはよう」
そこまで言って、アルエははっとした。
「って、違うわよ! マットよマット! あんたなんで起きてんのよ!」
「なんでと言われても」
マットは肩をすくめる。
「目が覚めたら起きるだろ。あ、おはようアルエ」
「おはよう、じゃないのよ!」
アルエは思い切り額を押さえた。
「あんた四年も寝てたんでしょうが!」
「ああ、そっちのことか。一週間くらい前に目が覚めたばっかりだがな」
「じゃあなおさらおかしいでしょうが!」
アルエの声が洞窟に響く。
「なんで四年も寝たきりだった人間が、目覚めて一週間で筋トレしてんのよ!」
「なんでと言われてもな」
マットは足元のウェイトを軽く指で叩いた。
「そこにウェイトがあって、体が動くなら筋トレをする。何も不思議なことはないだろう」
「あーーーーーーーー!」
アルエは両手で頭を抱えた。
「もう! あんたと話してると頭おかしくなる!」
そして一気にまくしたてる。
「あたしはこの四年間、あんたを目覚めさせるために世界中旅して、あちこち調べまくって、珍しい薬とかモンスターの素材とか集めまくって、それでもどれも効果なくて!」
息をつく暇もなく続ける。
「それなのに、あんたはさらっと目を覚まして、のんきに筋トレしてるってどういうことよ!」
洞窟の中にアルエの声が響く。
マットは、ただ黙ってそれを聞くしかなかった。
アルエはまだ何か言おうとして口を開く。だが言葉は続かなかった。胸の奥に溜まっていたものが一度に溢れ出したせいか、呼吸が少し乱れている。
「……あんたが、起きない間」
先ほどよりも少しだけ小さな声で、アルエは言った。
「リーリヤは平気そうな顔してたけどさ。おじさんもいつも通りふざけてたし……」
足元の小石を、つま先で軽く蹴る。
「でも、あたしは落ち着かなかったのよ」
洞窟の入口から差し込む朝日が、アルエの横顔を淡く照らす。
「薬師のところも回ったし、遺跡も潜ったし、古代魔法の資料があるって聞けば山越えて取りに行ったし……」
そこで小さく息を吐く。
「砂漠まで行ったのよ。あんたのために」
マットは何も言わない。ただ静かに聞いている。
「珍しい薬草だの、魔物の素材だの、起きるかもしれないって言われたものは全部試したわよ」
アルエは自嘲気味に笑った。
「でもさ。どれもこれも、まったく効かないのよ」
視線が落ちる。
「魔法もだめ。薬もだめ。何やっても反応なし」
そして小さく、呟く。
「……もう、このまま起きないんじゃないかって思ったじゃない」
洞窟の中が静まり返る。
少しの間だけ沈黙が落ちた。
やがてアルエは顔を上げる。
怒りはもう消えていた。
「……まあ」
肩をすくめる。
「起きてるなら、いいわよ」
マットをじっと見てから、少しだけ目を細める。
「どうせあんたは、そう簡単に死ぬようなやつじゃないし」
そして、ふっと小さく笑った。
「……ほんと、良かったわ」
その言葉を聞いて、マットはゆっくり息を吐く。
「……そうか」
少しだけ視線を逸らし、頭をかく。
「悪かったな」
そして、もう一度アルエを見る。
「でも――ありがとな」
アルエは一瞬だけ黙り込んだ。
次の瞬間、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「だ、だから別に感謝されるようなことじゃないって言ってるでしょ!」
洞窟に声が響く。
その騒ぎの横で、ミリアがぽつりと呟いた。
「アルエ姉ちゃん、泣きそうだったよね」
「泣いてないわよ!!」
アルエの声がさらに大きくなる。
その様子を見ながら、マットは小さく笑った。
四年ぶりに聞く、いつもの声だった。




