第144話 氷の微笑み
夕暮れの光が村の屋根を柔らかく染めていた。
街道の先から現れた巨大な灰色の影に、畑仕事をしていた村人たちが顔を上げる。
「おーい、マットじゃないか!」
「帰ってきたのか!」
カーボの背に乗ったマットと、その前にしがみついている小さな影を見て、村人たちはのんびりと手を振った。
この村では、巨大な狼にまたがって帰ってくる光景すら、もう特別なものではない。
それだけの時間が、ここには流れている。
「ただいまー!」
ミリアが元気よく声を張り上げる。
それに村人たちが笑いながら応える。
「おう、おかえり!」
「サリアンはどうだった?」
「筋肉祭り楽しかったよ!」
ミリアは身を乗り出して大きく手を振る。
その様子に、マットは苦笑しながらカーボの首を軽く叩いた。
「ほら、もう降りるぞ」
カーボがゆっくりと腰を落とす。
二人が地面に降りると、巨狼はそのまま伸びをし、のそのそと村の外れの木陰へ歩いていった。どうやら今日はもう働く気はないらしい。
マットは肩を軽く回しながら、見慣れた家へと歩く。
ミリアはその横で、まだ祭りの余韻が残っているのか、ぴょこぴょこと跳ねるように歩いていた。
そして家の扉を開ける。
「ただいまー!」
ミリアの声が家の中へ弾けた。
すぐに返事が返ってくる。
「あら、早かったのね。おかえりなさい」
そこに立っていたのはリーリヤだった。
エプロン姿のまま、腕を軽く組み、穏やかな笑みを浮かべている。
だが――。
その笑顔の奥に、どこか冷たいものがあることを、マットはすぐに察した。
「姉さん、何かあったのか?」
マットが首を傾げる。
リーリヤは小さく肩をすくめた。
「いいえ。今回は珍しくマットじゃないわ」
「ん?」
どういう意味だろう。
マットが怪訝な顔をする横で、リーリヤは視線をすっとミリアへ向ける。
「ねえ、ミリア。サリアンは楽しかった?」
声はとても優しい。
それが逆に、妙に怖い。
「うん! 筋肉祭り楽しかったよ!」
ミリアはそんな空気にはまったく気づかず、満面の笑みで答える。
両手を大きく振りながら、興奮した様子で続けた。
「お兄ちゃんがね、すっごい人たちと腕相撲しててね、それでね――」
「そう。それは良かったわ」
リーリヤは静かに頷く。
そして。
「でもね?」
その言葉と同時に、懐から一枚の紙を取り出した。
くしゃりと折りたたまれた、小さな紙片。
それを見た瞬間。
ミリアの表情がぴたりと止まる。
さっきまで輝いていた瞳が、みるみる曇っていった。
マットもそこで思い出した。
そういえば。
ミリアは――リーリヤに内緒でついてきたのだった。
「ま、まあ、姉さん」
マットは少し慌てて口を開く。
「ミリアも悪気があったわけじゃ……」
「あら」
リーリヤがゆっくりと首を傾げる。
「マットも同じことを言うのね?」
「同じこと?」
リーリヤは何も言わず、顎で部屋の奥を指した。
マットとミリアがそちらを見る。
そして――。
二人は固まった。
そこには。
椅子に縛り付けられたマエストロの姿があった。
腕も胴もぐるぐるに縄で固定され、椅子ごと身動きが取れない状態になっている。
その姿は、どう見ても家庭内の光景ではない。
完全に捕縛された何かだった。
「父さんもね」
リーリヤは静かな声で言う。
「同じことを言って、すぐミリアを甘やかすの」
マエストロは顔だけをゆっくりこちらへ向けた。
そして口を動かす。
声は出さない。
だが、その唇の動きははっきりしていた。
ニ。
ゲ。
ロ。
マットは思わず目を逸らした。
ミリアは完全に青ざめている。
リーリヤはそんな二人を静かに見つめたまま、にこりと微笑んだ。
「さて」
その微笑みは、とても優しい。
だが。
「まずは、お話をしましょうか」
その声には、一切の逃げ道がなかった。
ミリアは小さく肩を震わせた。
さっきまでの楽しそうな表情はすっかり消え、視線は床へ落ちている。逃げ出したい気持ちはあるのだろうが、リーリヤの前でそれができないこともよく分かっているらしい。
リーリヤはそんな妹の様子を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
怒鳴るわけでもなく、声を荒げるわけでもない。ただ、落ち着いた声で話し始める。
「ミリア。あなたが外の世界に興味を持つのは分かるわ」
ミリアの肩がぴくりと動いた。
「サリアンは大きな街だし、祭りだって楽しいでしょう。お兄ちゃんと一緒なら、きっと冒険みたいに見えたでしょうね」
そこまで言って、リーリヤは少しだけ微笑む。
「でもね。だからといって、黙ってついて行っていい理由にはならないの」
ミリアは唇をきゅっと結んだ。
リーリヤは続ける。
「あなたがいなくなったって聞いたとき、どれだけ心配したと思う?」
その言葉に、ミリアの目に涙が浮かび始める。
「村の周りを探して、森も見て、川も見て……。父さんは『大丈夫だろう』なんて言ってたけれど」
ちらりと、縛られているマエストロを見る。
「私はそう思えなかったの」
静かな声だった。
責める響きはない。
ただ、事実を伝えるような声。
「ミリアがいなくなったら、私たちは本当に困るのよ」
ミリアの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
「もう勝手に行かない」
リーリヤは少しだけ間を置く。
そしてゆっくりと歩み寄り、ミリアの頭にそっと手を置いた。
「ええ。そうしてくれると助かるわ」
優しく髪を撫でる。
「だって……心配したんだからね」
その言葉に、ミリアはぐすりと鼻を鳴らしながら何度も頷いた。
「……うん」
部屋の空気が、少しだけ柔らぐ。
その時だった。
ぎし。
背後で、椅子がわずかに軋んだ。
マエストロだった。
縄を器用にずらし、なんとか抜け出そうとしている。
あと少しで腕が抜けそうなところまで来ていた。
マットがそれに気づき、目を細める。
マエストロは必死の表情で、マットへ視線を送った。
そして、口を動かす。
今度ははっきり声も出ていた。
「マット……助けてくれ……頼む……」
しかし。
リーリヤは振り向きもしなかった。
ただ片手を軽く振る。
その瞬間、空気がひやりと冷えた。
「アイスダガー」
透明な氷の刃が数本、空中に生まれる。
それが一瞬で飛び、マエストロの椅子と床の隙間、縄の結び目のすぐ横へ突き刺さった。
逃げ道を完全に塞ぐ、正確すぎる配置だった。
マエストロはぴたりと動きを止める。
リーリヤはようやく振り返る。
そして、穏やかに言った。
「父さんは、まだ反省が必要そうね?」
「ま、待てリーリヤ! これはだな――」
言い訳を始めようとする父を見ながら、マットは軽く肩をすくめた。
そしてミリアを見る。
「よし」
「ミリア。ジムに行くぞ」
ミリアはまだ目を赤くしたまま、こくりと頷く。
「う、うん……」
二人はそのまま扉へ向かう。
背後から必死の声が飛んできた。
「マット! 助けてくれ! 頼む!」
しかしマットは振り返らない。
扉を開けながら、のんきな声で言う。
「まあ、父さんなら大丈夫だろ」
そのまま二人は外へ出た。
家の中には、しばらくしてから悲痛な叫びが響く。
「ま、待ってくれえええ! 頼む! 話を聞いてくれ!」




