第143話 オーガ出現
――その時だった。
ざわめきがようやく収まりかけていたギルドの扉が、突然、内側へ叩きつけられるように開いた。
「た、大変だ!」
飛び込んできたのは一人の冒険者だった。
鎧はところどころ砕け、肩当ては外れ、服は泥と血で汚れている。息は荒く、今にも崩れ落ちそうなほど体を揺らしながら、どうにか踏みとどまっている状態だった。
その姿を見た瞬間、ただ事ではないと誰もが理解する。
先ほどまでざわめいていたギルドの空気が、今度は別の意味でぴんと張り詰めた。
「どうした!」
近くにいた冒険者がすぐに駆け寄り、男の肩を支える。
だが男は息を整える暇すら惜しむように、掠れた声を絞り出した。
「お、オーガが出た……!」
その一言が落ちた瞬間、ギルドの空気がずしりと沈んだ。
オーガ。
この地域の冒険者なら、誰もが知っている名前だった。
それは山岳地帯や深い森の奥に現れる、人型の巨大モンスター。圧倒的な筋力と耐久を持ち、並の冒険者ではまともに戦うことすらできない存在だ。
もしそんな怪物が街の近くに現れたのだとすれば、それは単なる討伐依頼では済まない。放置すれば、街道を行き交う商人や旅人が次々と犠牲になる。
つまり――完全な緊急事態だった。
「なんで……こんなところにオーガなんか!」
「おい、人数かき集めろ!」
「場所はどこだ!」
怒号が飛び交い、ギルドの空気が一気に戦闘準備の色へと変わっていく。
報告に来た冒険者は壁にもたれながら、荒い呼吸の合間に言葉を吐き出した。
「街道の外れだ……馬車が一台やられてる……多分、どこかから流れてきたんだ……」
その言葉を聞き、何人もの冒険者が顔を見合わせた。
重い沈黙が落ちる。
だがその中で――マットだけは、少し違う表情をしていた。
オーガ。
その名前を耳にした瞬間、胸の奥に懐かしい感覚が蘇る。
まだ冒険者になりたてだった頃、初めて真正面から戦い、そして完全に叩き潰された相手。
あの時はエルザが助けに来てくれなければ、間違いなく命を落としていただろう。
その後、何度も鍛え、再び挑み、ようやくリベンジを果たした。
だが――。
今の自分は、あの頃とはまた違う意味で万全ではない。
四年間の昏睡。
弱った身体。
取り戻しきれていない感覚。
どこまで戦えるのか。
それを確かめるには、これ以上ない相手だった。
「オーガか」
マットはゆっくりと腕を回す。
肩の関節が小さく鳴り、続いて首を軽く傾けると、骨の鳴る乾いた音が静かに響いた。
「腕が鳴るな」
その様子を見て、近くにいた冒険者がぎょっとした顔になる。
「お、おい兄ちゃん……正気か?」
「勿論だ」
マットは軽く笑った。
「まあ、最悪俺がダメでも――」
そう言って、ちらりと入口の方を見る。
「カーボなら余裕だろ」
その言葉に応えるように、開け放たれた扉の外から低い声が響いた。
「……ウォン」
外で待っていたカーボが、小さく吠えた。
それからほどなくして、マットはミリアを連れ、カーボの背にまたがってギルドを飛び出していた。
現場の場所は、おおよそは先ほどの冒険者から聞いている。だが、仮にそれが曖昧だったとしても問題はない。街道に残された血の跡と匂いを辿れば、カーボが迷うことはまずないだろう。
地面を蹴る音が、次の瞬間にはもう遠くへ流れていく。
カーボは一気に加速した。
街道を裂くような全速力。
風が顔に叩きつけられ、景色が後ろへと流れていく。
「ミリア、しっかり捕まってろ。舌噛むなよ」
「う、うん!」
ミリアは必死にマットの腰にしがみつく。
今まで感じたことのない速さだった。風圧に思わず目を細めながらも、その胸の奥には、緊張と同時にどこか楽しさのようなものも混じっている。
やがて街の建物が途切れ、街道の外れへと差しかかった。
そこで、はっきりと異変が目に入る。
横倒しになった馬車。
砕けた車輪。
散乱した荷物。
そして――。
その脇で、何かを貪っている巨体。
緑がかった灰色の皮膚。
岩のように盛り上がった筋肉。
丸太のような腕。
それは、紛れもなくオーガだった。
「お、おっきい……!」
ミリアが思わず声を上げる。
初めて目にする巨体に、驚きの色が隠せない。
その声に反応するように、オーガはゆっくりと動きを止めた。
貪っていた荷物を放り出し、ぎしりと音を立てながら体を起こす。
そして、こちらへと振り返った。
濁った黄色い目が、まっすぐマットたちを捉える。
その巨体から発せられる圧力に、普通の人間なら思わず足がすくむだろう。
だが。
マットの胸の奥では、逆に高揚感がゆっくりと膨らんでいた。
「カーボ」
短く呼びかける。
「ミリアを連れて、少し下がってろ」
カーボは一度だけ低く喉を鳴らした。
理解している、と言わんばかりに。
そして次の瞬間、ミリアの首元の服をそっと咥え、そのまま軽く跳ねるように後方へと下がる。
数歩で十分な距離を取ると、ミリアを地面へ下ろし、オーガとマットの様子をじっと見据えた。
街道の外れに、重たい沈黙が落ちる。
巨大なオーガと、その前に立つ一人の男。
体格差だけを見れば、勝負になるようには見えない。オーガの肩はマットの二倍以上の高さにあり、腕は丸太どころか柱のようだった。
しかしマットは一歩も退かず、ゆっくりと肩を回す。
関節が鳴り、続いて首を軽く傾ける。
その仕草は、まるで軽い準備運動のようだった。
対してオーガは、目の前の存在にわずかな戸惑いを覚えていた。
小さい。
圧倒的に小さい。
ひねり潰せる。
それなのに――その余裕は何だ。
自分を恐れないその態度が、オーガの神経を逆撫でした。
低く唸り声を上げた次の瞬間、オーガは地面を蹴った。
巨体とは思えない速度で距離を詰め、そのまま巨大な拳を振り下ろす。
空気が裂ける。
だが。
マットは逃げない。
踏み込み、両腕を上げて――その拳を正面から受け止めた。
轟音。
衝撃が全身を突き抜ける。
足元の地面が砕け、マットの脚がずぶりと沈み込んだ。
「く……重いな」
吐き出すように言う。
だが、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。
今の一撃で、全身の筋肉が一斉に悲鳴を上げている。骨が軋み、筋が裂け、体の奥まで衝撃が響く。
だが次の瞬間。
淡い緑の光が、マットの身体を包み込んだ。
回復魔法。
裂けかけた筋肉が再び繋がり、損傷した組織が瞬く間に修復されていく。
「……この感覚、久しぶりだな」
マットは小さく呟いた。
モンスターとの極限の戦闘の中で、自分の体を壊しながら鍛える。
傷つき、回復し、さらに負荷を重ねていく。
それがマットの戦い方だった。
「流石にこの状態じゃ、カーボ相手にするのは骨が折れるからな」
肩を鳴らしながら言う。
「丁度いい相手が居て助かった」
その言葉を理解したわけではないだろう。
だが、侮られた空気だけは伝わったらしい。
オーガの目が怒りで濁る。
次の瞬間、再び拳が振り下ろされた。
ドン。
衝撃。
さらにもう一撃。
ドゴン。
巨体から繰り出される拳が、容赦なく叩きつけられる。
そのたびにマットの身体は地面に沈み込み、骨を砕くような衝撃が走る。
だが、同時に緑の光がその身体を包み込む。
回復。
再生。
修復。
そしてまた負荷。
「いいぞ……!」
マットの目が輝く。
「いい負荷だ。もっと来い!!」
その叫びに呼応するように、オーガが咆哮を上げた。
巨大な腕を振り上げ、両手を組み合わせる。
次の瞬間。
大槌のような両拳が、マットの頭上へ叩き落とされた。
マットは両腕を掲げ、それを受け止める。
地面が爆ぜた。
衝撃で周囲の土が跳ね上がり、砂煙が舞う。
マットの両脚は、すでに膝近くまで地面へ沈み込んでいた。
だが。
それでも腕は折れない。
緑の光が、再び身体を包む。
オーガは何度も拳を振り下ろす。
一撃。
また一撃。
さらに一撃。
そのたびにマットの身体は地面へ沈み、回復魔法が全身を修復していく。
そして――。
しばらくして。
オーガの拳が振り下ろされても、マットの身体はもう沈まなくなっていた。
むしろ。
受け止めた腕が、ゆっくりと押し返し始める。
筋肉が軋み、骨が鳴る。
だが今度は、マットの方が笑っていた。
「……なら、今度はこっちの番だな」
マットはゆっくりと地面にめり込んだ足を引き抜いた。湿った土が崩れ、ずぶりと抜けた脚が地面へ戻る。
その脚は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
筋肉が膨らみ、血が巡り、負荷と回復を何度も繰り返した結果として一回り太くなっている。戦闘の最中に鍛え直された肉体は、さっきまでのマットとは別物のようだった。
受け止めていたオーガの拳が、ゆっくりと押し返されていく。
ぎしり、と。
オーガの腕が軋んだ。
その巨体が初めて後ろへ揺らぐ。
マットの身体からは白い湯気が立ち昇っていた。血流が上がり、熱を帯びた体から蒸気が漏れている。
その姿は、どちらが鬼なのか分からないほどだった。
そして次の瞬間。
マットの拳が放たれる。
踏み込み。
腰を捻り。
全身の筋肉を連動させた一撃。
拳がオーガの腹部へ突き刺さった。
衝撃が走る。
巨体がぐらりと揺れ、オーガは数歩よろめいた。
だが――まだ倒れない。
「いいぞ。そう来なくっちゃな!」
マットは笑う。
そこからは、殴り合いだった。
オーガの拳とマットの拳が真正面からぶつかり合う。巨大な拳と人の拳が互いの身体へ叩き込まれ、そのたびに空気が破裂するような音が街道に響き渡る。
岩を砕くような衝撃。
肉と骨がぶつかる鈍い音。
砂埃が舞い上がり、周囲の木々の葉が震える。
その光景を、ミリアは瞳を輝かせながら見つめていた。
「お兄ちゃん、すごい!」
まるで祭りでも見ているような声だった。
カーボもまた、その様子を見守っている。どこか懐かしいものを見るように尻尾をゆっくりと振っていた。
「あれ、お兄ちゃん何してるの?」
ミリアの素朴な疑問に答える者は、残念ながら誰もいない。
カーボは呆れたように鼻を鳴らす。
「……ワフ」
そしてついには、その場に丸くなってしまった。
どうやら長くなりそうだと判断したらしい。
カーボが目を逸らした先で――。
「ヒーリングパンチ!」
マットの拳がオーガを殴り飛ばした。
巨体が大きくよろめいた瞬間、今度はオーガの体が淡い緑の光に包まれる。
回復魔法。
裂けた皮膚が閉じ、傷ついた筋肉が修復されていく。
マットのスパーリングの真骨頂だった。
自分だけでなく、相手の傷すら癒す。
互いを戦闘の中で回復させ、より激しい負荷をかけ続ける。
極限まで戦いを長引かせる、常識外れの訓練方法。
オーガが再び咆哮を上げる。
そしてまた拳を振り下ろす。
マットは笑いながらそれを受け、殴り返し、回復し、さらに殴る。
殴り。
殴られ。
回復し。
また殴る。
その繰り返しが、しばらく続いた。
やがて。
オーガの巨体が、ついに膝をついた。
最後の一撃を受け、ゆっくりと横倒しになる。
地面が揺れ、土煙が舞い上がった。
マットは肩で息をしながら、その巨体を見下ろす。
「……いいトレーニングだったぞ」
殴り合った相手への敬意のように、マットは軽く一礼した。
それから振り返り、カーボとミリアのところへ歩いて戻る。
「終わったぞ」
だが。
ミリアは、いつの間にか眠っていた。
丸くなったカーボの腹の上で、すやすやと寝息を立てている。
カーボはというと、完全に付き合う気をなくした様子で目を細めていた。
「……お前、案外肝も据わってるんだな」
マットは苦笑する。
本来なら鬼気迫る戦闘だったはずだ。
だがミリアにとっては――どうやら子守歌のようなものだったらしい。
その時だった。
遠くから、複数の足音が聞こえてきた。
乾いた土を踏みしめる音。鎧が触れ合う音。慌てた呼吸。
どうやら街の冒険者たちが応援に駆け付けてきたらしい。
カーボの全速力でここまで来たことを考えれば、丁度それくらいの時間だろう。
やがて、街道の向こうから数人の冒険者が姿を現した。
そして――。
倒れているオーガの巨体を見た瞬間、足を止める。
「……おい」
先頭にいた大柄の冒険者が目を見開いた。
「お、おい……ほんとにやっちまったのか!」
その声に、後ろの冒険者たちも一斉に視線を向ける。
巨大なオーガの死体。
そしてその横で、まるで散歩でも終えたかのように立っているマット。
状況を理解するのに、数秒かかったらしい。
「……ああ」
マットは肩を回しながら答える。
「丁度トレーニングに良さそうだったからな」
「トレーニング!?」
冒険者の声が裏返った。
だがマットは特に気にする様子もなく、カーボの方へ歩いていく。
その途中で、カーボの腹の上で眠っていたミリアが、もぞりと動いた。
小さくあくびをし、眠そうに目をこする。
「……ん……」
「お兄ちゃん……もう終わったの?」
「ああ。終わったぞ」
マットは笑う。
「そろそろ村に帰るか」
「うん……」
ミリアはまだ少し眠そうなまま頷いた。
マットはカーボの背に軽く飛び乗る。
そして振り返り、呆然としている冒険者たちへ手をひらひら振った。
「じゃあ、後は任せた」
「え?」
「報酬は適当に分けといてくれ」
そう言い残すと、カーボが地面を蹴る。
次の瞬間には、巨狼の背に乗った二人の姿は街道の向こうへと走り去っていた。
取り残された冒険者たちは、しばらくその背中を見送る。
そしてゆっくりと視線を、足元のオーガへと戻した。
「……おい」
「これ……どうすんだ?」




