第110話 エルミア村
草原の旅が数日続いた頃、景色は再びゆっくりと変わり始めていた。
背の低い草が一面に広がる穏やかな大地は、次第に荒れた表情を見せ始める。ところどころ地面には細い亀裂が走り、乾いた土が不規則に盛り上がっていた。風に揺れる草の合間には、黒ずんだ岩片が点々と顔を覗かせている。遠くの地平線の向こうには、大地がゆるやかに沈み込むような影が見えていた。
それが――イーネスの落窪である。
「……だいぶ近づいてきたわね」
リーリヤが遠くの地形を見つめながら言った。彼女の声には、わずかな緊張が混じっている。
「そうだね。地形の変化もそれらしい。落窪の周辺は魔力の流れが乱れるって記録にあったけど……どうやら本当みたいだ」
ロイドは地面にしゃがみ込み、指先で土を軽くすくい上げた。乾いた土粒の中に、微かに光る魔力の粒子が混ざっているのが分かる。
「自然にしては、少し濃すぎるね。落窪から流れ出した魔力が、地下水脈や地層に沿ってここまで届いてる可能性がある」
「つまり、あの穴ぼこが原因でこの辺の環境が変わってるってこと?」
アルエが眉をひそめた。
「まあ、そんなところだろうね。巨大な魔力の落差がある場所だから、周囲に影響が出てもおかしくない」
ロイドが立ち上がると、視線の先に小さな集落が見えてきた。
木造の家が十数軒ほど並ぶ、小さな村だった。
周囲には畑があり、柵で囲われた家畜小屋も見える。煙突からは細い煙が上がり、村の中心には小さな井戸が設けられていた。
「……あれがエルミア村か」
マットが言った。
「落窪へ向かう者が最後に立ち寄る場所らしいよ。調査隊や探索者が時々利用する村だって聞いたことがある」
ロイドが説明する。
「最後の補給地点ってわけね。じゃあ今日はここで休めそうかしら」
アルエが肩を回しながら言った。
だが、村に近づくにつれて様子がおかしいことに気付いた。
人の動きが妙に慌ただしい。
井戸の周囲には数人の男たちが集まり、何やら言い争うように話している。武器を持った若者も見え、村の雰囲気はどこか落ち着きがなかった。
「……歓迎されてる感じじゃないわね」
リーリヤが小声で言う。
「トラブルの匂いがするね」
ロイドが苦笑した。
そのとき、村の男の一人がこちらに気付いた。
「おい……あんたら、旅人か?」
中年の男だった。日焼けした顔に、畑仕事の名残の土がついている。
「そうだ。カタリナから来た冒険者だ」
マットが答える。
男は一瞬だけ目を見開いた。
「冒険者……か。ちょうどいい、いや……むしろ助かったかもしれん」
「どうしたんです? 何か問題が起きているみたいですけど」
リーリヤが一歩前に出て尋ねる。
男は少し躊躇したあと、井戸の方を振り返った。
「……最近、この村で妙なことが起きてるんだ」
「妙なこと?」
アルエが首を傾げる。
「家畜が消える」
男の言葉は短かった。
「最初は鶏だった。次は山羊。その次は……小型のモンスターまでいなくなった」
「死体は?」
ロイドがすぐに聞いた。
「残らん。血も、骨も、何もだ」
その言葉に一行は顔を見合わせた。
「夜になると、井戸の辺りで何かが動いてる。音もする。だけど……誰も姿を見てない」
「それは随分と不気味な話ね」
リーリヤが腕を組む。
「モンスターかもしれないし、別の何かかもしれない……ってわけか」
ロイドは井戸へ歩み寄った。
井戸の縁に手をかけ、静かに水面を覗き込む。
水は澄んでいる。
だが。
「……これは」
ロイドが小さく呟いた。
「どうしたの?」
「魔力が混ざってる」
彼は指先で水をすくい上げた。
「自然に溶け込んでる量じゃない。誰かが魔法を使った形跡でもない。これは……地下から流れ込んでる」
「地下?」
アルエが井戸を覗き込む。
「落窪の影響だろうね。巨大な魔力の流れが地下水に混ざって、この井戸に集まってる」
「つまり、ここは魔力溜まりってこと?」
「そう考えるのが自然だ」
ロイドが頷いた。
その時だった。
マットの肩に巻き付いていたアミノが、するりと動いた。
ゆっくりと肩から降り、井戸の縁へと這っていく。
「……アミノ?」
リーリヤが声をかける。
蛇は舌を何度も出し、空気を探るように動いていた。
そして井戸の縁に顔を近づけ、水面を舐めた。
「おいおい……何してるんだ、そいつ」
村の男が少し後ずさる。
「大丈夫よ。噛んだりしないわ」
リーリヤが言う。
「……ロイド、あれって」
「うん」
ロイドは興味深そうにアミノを見つめていた。
「魔力を吸収してる」
「え?」
「この個体は魔力吸収能力を持ってる。だけど……」
ロイドは少し首を傾げた。
「普段より反応が強い」
アミノはさらに水面を舐める。
舌が小さく震え、体がわずかに膨らんだ。
「……大丈夫なの、それ」
アルエが言う。
「分からない。でも興味深いね」
ロイドの目は研究者の光を帯びていた。
そのとき。
村の若者が駆け込んできた。
「おい! 井戸の裏の畑だ!」
「また出た!」
男たちが一斉に動き出す。
「出たって……何が?」
アルエが聞く。
若者は息を切らしながら言った。
「蔓だよ! 地面から急に伸びてきたんだ!」
ロイドの表情が変わった。
「……なるほど。そういうことか」
「何が分かったの?」
リーリヤが聞く。
「魔力溜まりだよ。この井戸に集まった魔力が地下に染み込んで、植物を異常成長させてる可能性がある」
「つまり……」
アルエが目を細めた。
「魔力ドーピング植物ってこと?」
「そう言い換えてもいいね」
ロイドが頷く。
「放っておけば、村そのものが危険になる」
マットが拳を鳴らした。
「なら、やることは決まってるな」
「待って、マット。相手は植物よ?」
アルエが言う。
「だからどうした」
「……まあ、あなたには関係ないわね」
リーリヤが苦笑する。
その時。
地面が、ゆっくりと盛り上がった。
畑の土が裂け、太い蔓が地面から這い出してくる。
一本、二本、三本。
蛇のようにうねりながら、蔓が空中で揺れた。
村人が悲鳴を上げる。
「出たぞ!」
「まただ!」
蔓はまるで獲物を探すように揺れていた。
そして――。
マットの腕へ向かって伸びた。
「……よし」
マットは静かに一歩踏み出す。
「筋トレの時間だな」
「違うって言ってるでしょ!」
アルエが叫ぶ。
その瞬間。
アミノが、井戸の縁でぴたりと動きを止めた。
舌を何度も出し入れしながら水面の魔力を確かめるように動き、やがてゆっくりと頭を下ろす。ぺろり、と一度水面を舐めた。
すると次の瞬間、蛇の体がわずかに震えた。
「……ロイド?」
リーリヤが眉を寄せる。
「今の、魔力を吸ったの?」
「うん。かなり濃い魔力が溶けてるからね。この個体の吸収能力が反応したんだろう」
ロイドは腕を組みながら観察していた。
アミノはさらに何度か水面を舐める。
舌を出すたびに、井戸の水に含まれていた微かな魔力が吸い上げられていく。
やがて。
蛇は満足したように体を丸めた。
そして、ゆっくりとマットの肩へと戻ってくる。
「……満腹って顔してるわね」
アルエが呆れた声を出した。
「ほんとだ。なんか妙に機嫌良さそう」
リーリヤも苦笑する。
アミノはマットの肩に巻き付き、落ち着いたように動きを止めた。ほんのわずかだが、体の鱗が以前よりも淡く光っているようにも見える。
「魔力を溜め込んだだけだと思うけど……まあ、今のところ問題はなさそうだね」
ロイドが肩をすくめる。
「それより、だ」
彼は畑の方へ視線を向けた。
地面はまだ不自然に盛り上がり、土の下で何かがうごめいている。
「どうやら原因はこっちだ。魔力を吸った植物が暴れてる可能性が高い」
「なら話は早いな」
マットが一歩前へ出た。
「暴れてるなら、止めればいい」
「……その止め方が大体筋肉なのよね」
アルエがため息をつく。
その時だった。
畑の地面が大きく割れた。
太い蔓が何本も地面から飛び出し、蛇のように空中でうねり始める。
村人たちが悲鳴を上げた。
「出たぞ!」
「まただ!」
蔓は獲物を探すように揺れ、やがてゆっくりとマットの方へ向きを変える。
マットは拳を軽く握った。
「……よし」
静かな声で言う。
「筋トレの時間だな」
「だから違うって言ってるでしょ!」
アルエのツッコミが村に響いた。




