第108話 イーネスの落窪
カタリナ冒険者ギルドの朝は、いつも通り騒がしかった。
巨大な岩山をくり抜いて造られたホールには、朝から多くの冒険者たちが集まり、受付前には依頼を求める者、報告に来た者、単に酒の残り香を漂わせながら椅子に腰掛けている者まで入り混じっている。壁際の掲示板には新しい依頼書が貼られ、ざわめきと紙の擦れる音、そして時折混じる笑い声が空間に広がっていた。
その喧騒の中を、マットたちのパーティがゆっくりと歩いていく。
「やっぱり朝のギルドって落ち着かないわね」
アルエが辺りを見回しながら肩をすくめる。
「夜よりは健全だと思うけどね」
ロイドが淡々と返した。
「夜は夜で酒臭いし、昼は昼でうるさいし……どっちも似たようなものじゃない?」
リーリヤが苦笑する。
マットはそんな会話を聞き流しながら、ギルド奥の扉へ向かって歩いていた。歩幅はいつも通り大きく、背筋はまっすぐ伸びている。肩にはアミノが巻き付き、後ろではカーボが悠然と歩き、さらにその後ろをササミが小さな羽を揺らしながらついてきていた。
やがて一行は、ギルドマスター室の扉の前に立つ。
軽くノックをすると、中から低い声が響いた。
「入れ」
扉を開ける。
部屋の中では、グラハムがいつものように机の向こうに座っていた。机の上には地図や書類が広げられ、壁際には新しく持ち込まれたらしい資料の束が積まれている。
「来たか」
グラハムは椅子に深く腰を掛けたまま、顎を軽くしゃくった。
「待ってたぜ」
マットたちは机の前に並ぶ。
ロイドの視線はすでに机の上の地図へ向けられていた。細い線でいくつかの地点が結ばれており、その中心には赤い印が付けられている。
「……調査は終わったのかい?」
ロイドが静かに聞いた。
「終わったというより、方向が見えたってところだな」
グラハムは地図を指で叩く。
「お前らが火山の施設から持ち帰った資料、それから各地のギルドから上がってきてる報告。全部突き合わせた結果、共通点が浮かび上がった」
リーリヤが少し身を乗り出す。
「共通点?」
「魔力濃度の異常上昇だ」
グラハムは地図の一点を指した。
「この辺り一帯で、ここ数年妙にモンスターが強くなってるって報告が出てる」
ロイドの目が細くなる。
「……魔力の残留」
「察しがいいな」
グラハムがにやりと笑った。
「昔、そこにドラゴンが落ちたらしい」
アルエが眉を上げる。
「落ちた?」
「正確には、空から叩きつけられたって話だ」
グラハムは椅子に背を預けた。
「何十年も前の出来事だが、その衝撃で巨大な窪地が出来た。周囲の地形がえぐれ、今じゃ盆地みたいな形になってる」
リーリヤが小さく息を吐く。
「そこが今回の目的地?」
「そうだ」
グラハムは地図をマットたちの方へ向けた。
「イーネスの落窪」
その名前が出た瞬間、ロイドの表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬。
だが、リーリヤは見逃さなかった。
「……ロイド?」
ロイドはすぐに視線を地図へ落とす。
「どうかしたの?」
リーリヤが聞く。
数秒の沈黙。
ロイドは小さく息を吐いた。
「いや……なんでもない」
「ほんとに?」
「ただ、少し思い出しただけさ」
ロイドは眼鏡の位置を直した。
「昔、調査に行ったことがある場所だ」
それ以上は何も言わない。
グラハムはその様子をちらりと見たが、特に突っ込まず話を続けた。
「そこに向かってもらう」
マットが腕を組む。
「理由は?」
「火山の施設の資料に、いくつか同じ地名が出てきた」
グラハムは机の上から一枚の紙を取り出す。
「魔力濃度、進化実験、そしてドラゴン関連の記録。全部この辺りと一致する」
ロイドが静かに言った。
「……つまり研究の起点」
「そういうことだ」
グラハムは頷く。
「博士とやらが動き始めた場所かもしれねえ」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
アルエが腕を組んだ。
「なるほどね。つまりそこに行けば、何かしらの痕跡が見つかるってわけ」
「運が良けりゃ本人にもな」
グラハムはニヤリと笑う。
「どうだ。正式な依頼として受けるか?」
マットは即答した。
「断る理由がない」
「だろうな」
グラハムは満足そうに頷く。
「依頼名は調査任務。だが内容はお前らも分かってるだろ」
「ええ」
リーリヤが静かに答えた。
「調査だけで終わるとは思ってないわ」
グラハムは立ち上がり、机の引き出しから書類を取り出した。
「正式依頼だ。受領してくれ」
マットが書類を受け取る。
紙にはギルドの印章が押されていた。
「出発はいつだ?」
「準備ができ次第でいい」
グラハムは肩をすくめた。
「どうせお前らのことだ。もう準備は終わってるんだろ」
マットは軽く笑う。
「ほぼな」
「だと思った」
グラハムは豪快に笑った。
「じゃあ行ってこい」
そう言って手を振る。
「カタリナのギルドを代表するパーティとしてな」
ギルドマスター室を出たあと、一行はそのまま鍛冶屋の方角へ向かった。
石畳の通りは昼の光を反射し、行き交う人々の声が街全体に広がっている。
「イーネスの落窪、ね」
アルエがぽつりと呟いた。
「名前だけで嫌な予感しかしないんだけど」
「地形的にはただの巨大クレーターだと思うよ」
ロイドが言う。
「ただ、ドラゴンの魔力が長く残ってるなら、周囲の生態系は普通じゃないだろうね」
「つまり強いモンスターがいるってことね」
「そうなる」
マットは少しだけ嬉しそうだった。
やがて鍛冶屋に到着する。
扉を開けると、金槌の音がぴたりと止まった。
「おう、来たか坊主」
店主が振り返る。
「ちょうど仕上がったところだ」
作業台の上に、二本の杖が置かれていた。
一本は赤い魔力を帯びた杖。ドラゴンの骨を軸に、竜玉が核として埋め込まれている。
もう一本はフェニックスの羽をあしらった、軽やかな曲線の杖。
アルエの目が輝いた。
「……いいじゃない」
リーリヤも静かに頷く。
「すごく綺麗」
店主は腕を組んだ。
「ドラゴンの骨なんて素材、そうそう触れるもんじゃねえ。いい仕事させてもらったぜ」
アルエが杖を手に取る。
軽く振る。
空気がわずかに震えた。
「……いいわね。魔力の流れが全然違う」
リーリヤも自分の杖を握る。
「扱いやすい。魔力が素直に通る」
店主は満足そうに笑った。
「そりゃそうだ。素材が素材だからな」
マットは拳を鳴らした。
「いい仕事だ」
「当然だ」
店主は胸を張る。
「俺を誰だと思ってやがる」
用事を終え、店を出る。
カタリナの街を歩きながら、リーリヤはゆっくりと周囲を見回した。
この街には、思った以上に長く滞在していた。
火山の調査。
フェニックスの事件。
スケイルドラゴン。
振り返れば、短い時間の中に色々な出来事が詰まっている。
「……なんだか、ちょっと寂しいわね」
リーリヤが言った。
「もう出るの?」
アルエが笑う。
「帰ってくるかもしれないじゃない」
「それでもよ」
リーリヤは肩をすくめた。
「こういう街って、離れる時にちょっと名残惜しくなるものなの」
ロイドが静かに言う。
「それはいいことだと思うよ」
「どうして?」
「帰る場所が増えるってことだからね」
マットは振り返り、街を一度見渡した。
岩山を削って造られた建物。
煙を上げる鍛冶場。
騒がしい市場。
そして、巨大な冒険者ギルド。
「……また来るさ」
短く言う。
「その時はもっと強くなってる」
アルエが吹き出した。
「結局それなのね」
「当然だ」
マットは平然としている。
「鍛えてるからな」
リーリヤは笑った。
「じゃあ、次に来た時は街の建物持ち上げたりしないでよ?」
「さすがにそこまではしない」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって言ったわよこの人」
笑いながら、街の門へ向かう。
カーボが大きく欠伸をし、ササミは小さく羽を揺らして歩く。
門を抜けると、広い道が遠くまで続いていた。
その先にはまだ見えない旅路がある。
ロイドは振り返らなかった。
ただ静かに前を見て歩く。
イーネスの落窪。
かつて訪れた場所。
そして、おそらく――
過去が待っている場所。
マットが拳を握る。
「よし」
そして笑った。
「トレーニングがてら行くか」
「トレーニングって距離じゃないわよ」
アルエが呆れる。
「数週間の旅なんだから」
「ちょうどいい」
マットは軽く肩を回した。
「体も温まる」
リーリヤが笑う。
「ほんと、ぶれないわね」
そして一行は歩き出す。
街道はゆるやかに続き、その先で地平線に溶けていた。
目指すは――
イーネスの落窪。
かつてドラゴンが落ち、そして一人の研究者が死んだとされる場所。




