第105話 焼け残ったもの
石室の空気はまだ熱を帯びていた。
先ほどまで荒れ狂っていた魔力の余波が、薄く煙のように漂っている。壁面はところどころ黒く焦げ、巨大な亀裂が走り、床の岩盤は衝撃で波打つようにひび割れていた。戦闘の中心だった場所には、もはや生きた怪物の姿はない。ただ巨大な骨の山が崩れ落ちているだけだった。
それでも、ほんの少し前までここにいた存在の威圧感は消えていない。スケイルドラゴンの残骸は、単なる骨であるはずなのに、石室の空間そのものに重みを残しているようだった。
マットは崩れた骨の山の前でゆっくりと息を吐いた。
拳を握り直す。
骨を砕いた衝撃はまだ腕に残っていた。拳の奥に鈍い振動のような感覚が残っている。それは痛みではないが、確かに強敵とぶつかり合った証のような感触だった。
「……終わった、か」
その声は自分でも驚くほど低かった。
振り返る。
石室の奥では、リーリヤが壁に背を預けて座り込んでいた。肩で息をしている。普段の落ち着いた表情はどこにもなく、額には汗が滲み、指先はわずかに震えていた。それでも視線だけはまだ鋭く、周囲を警戒するように動いている。
少し離れた場所では、アルエが床にぺたりと座り込んでいた。
「はぁ……はぁ……」
大きく息を吸い込み、吐き出す。
その体は限界に近かった。上級魔法を連続で放った反動は重い。体内の魔力は空に近く、筋肉も思うように動かない。それでも目の前の骨の山を見上げると、アルエは小さく笑った。
「……ほんとに倒したんだよね、あれ」
まるで信じられないというような声だった。
その横では、ササミが静かに翼を震わせている。
骨の尾に貫かれていた翼からは、まだ血が滴っていた。だがその巨体は崩れてはいない。むしろ戦闘が終わったと理解すると、ゆっくりと首を伸ばし、体を大きく震わせた。骨の破片がぱらぱらと床へ落ちる。
そして。
骨の山の横で、ばり、と乾いた音が響いた。
全員の視線がそちらへ向く。
カーボだった。
巨大なスケイルドラゴンの骨の一部を、何食わぬ顔で齧っている。前脚で骨を押さえ込み、鋭い牙を突き立て、まるで固い肉でも食べるかのように噛み砕いていた。
「……おい」
マットが思わず声をかける。
「それ、ドラゴンの骨だぞ」
カーボは一瞬だけこちらを見た。
それから何事もなかったかのように、再び骨を齧る。
ばり、と鈍い音が響く。
普通のモンスターなら歯が欠けるか、そもそも噛み跡すら残らないはずの硬度だ。しかしカーボの顎は迷いなくそれを砕いていく。
その様子を、ロイドが少し離れた場所から眺めていた。
彼はすでに動いていた。
倒れている研究員の腕を後ろで縛り上げ、魔法拘束具を取り付け、淡々と捕縛を進めている。アミノはその肩の上に乗り、周囲の魔力の流れを探るように触角を震わせていた。
「……普通は噛めないんだけどね、それ」
ロイドがぼそりと呟く。
「ドラゴンの骨は、並の金属より硬い」
マットが肩をすくめる。
「カーボは並じゃないってことだろ」
「まあ、それはそうだろうけど」
ロイドは小さく笑った。
そして再び作業に戻る。
床に倒れている研究員の一人を引きずり、壁際へ移動させる。魔法具を取り上げ、袋へ入れる。周囲に散らばっている羊皮紙や器具を拾い上げ、状態を確認する。
その動きは驚くほど落ち着いていた。
まるで、こういう状況に慣れているかのようだった。
マットはその様子を見ながら、アルエの肩へ手を置く。
淡い光が広がった。
治癒の魔力がゆっくりと体内へ流れ込んでいく。
アルエが小さく息を吐いた。
「……ああ、生き返る……」
「死んでないだろ」
「気分的な話!」
それでも顔色は少しずつ戻っていく。
マットは続けてリーリヤへも回復を流す。
リーリヤは静かに目を閉じ、その魔力を受け取った。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。
「……ありがとう」
「まだ無理するなよ」
「言われなくてもそうするわ」
そう言いながらも、リーリヤの視線はすでに研究所の内部へ向いていた。
石室の奥。
半ば崩れた通路。
その先に、焼け焦げた研究設備が見える。
ロイドがそこへ歩いていった。
床には黒く焦げた羊皮紙が散らばっている。棚は崩れ、薬品瓶は砕け、魔法陣の刻まれた石板は半分ほど溶けていた。
彼はしゃがみ込み、一枚の紙を拾い上げる。
だがそのほとんどは読めなかった。
文字は焼け、端は炭になっている。
「徹底してるね」
ロイドは静かに言った。
「証拠は残さないつもりだったらしい」
周囲を見渡す。
確かにそうだった。
研究設備の大半は意図的に破壊されている。重要そうな資料はすべて焼却され、魔力炉は過負荷で暴走した形跡がある。
「最初から、見つかったら全部消すつもりだったんだろう」
マットが言う。
ロイドは頷いた。
「警備じゃない。証拠隠滅装置だ」
そして視線を、石室の中央へ向ける。
スケイルドラゴンの骨の山。
「あれも含めてね」
ロイドは近づき、骨を一つ拾い上げた。
表面を指でなぞる。
わずかに魔力が残っている。
彼の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……やっぱりだ」
「何が?」
マットが聞く。
ロイドは骨を掲げた。
「これは自然のドラゴンじゃない」
その言葉に、リーリヤが眉を上げる。
「人工ってこと?」
「正確には、強制進化の最終段階だろうね」
ロイドは骨の断面を見つめながら続ける。
「骨の成長痕がない。魔力の流れも歪んでいる。本来のドラゴンとは構造が違う」
つまり。
「……作ったのか」
マットが呟く。
「ドラゴンを」
ロイドは静かに頷いた。
「正確には、ドラゴンになり損ねた何かだけどね」
石室に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのはアミノだった。
小さな体がふわりと宙に浮き、崩れた机の奥へ潜り込む。
ごそごそと音がする。
やがて、小さな巻物を引きずり出してきた。
ロイドがそれを受け取る。
表面は焼けているが、中央部分はかろうじて残っていた。
文字を読む。
しかし、ほとんどは判別できない。
だが。
最後の署名だけが、奇妙なほどはっきり残っていた。
そこに書かれていたのは、たった一文字だった。
Z
ロイドの視線が止まる。
「……Z?」
マットが覗き込む。
「それだけか?」
「それだけだね」
ロイドは紙を裏返す。
他には何も残っていない。
ただ、その一文字だけが焼け残っている。
その時だった。
壁際で縛られていた研究員の一人が、かすかに呻いた。
ゆっくりと目を開ける。
そして。
石室の中央を見た。
スケイルドラゴンの骨の山。
その光景を見た瞬間、男の顔から血の気が引いた。
「……ありえない……」
震える声が漏れる。
「……あれは……ドラゴンだぞ……」
ロイドは静かに男を見下ろした。
「君たちの研究かい?」
男は答えない。
ただ震えている。
そして、かすれた声で呟いた。
「博士が……知ったら……」
その言葉に、ロイドの視線が鋭くなる。
「博士?」
男はそれ以上何も言わなかった。
ただ顔を伏せ、震え続けている。
ロイドはゆっくりと立ち上がった。
手に持っていた焼けた羊皮紙をもう一度見る。
そこに残された一文字。
Z
「……博士、か」
ロイドは静かに呟いた。
「この研究を束ねている人物だろうね」
石室の奥で、カーボが骨を砕く音が響いた。
ばり、と乾いた音が静寂の中に広がる。
ロイドはその音を聞きながら、焼け残った署名を見つめていた。
Z。
その一文字だけが、奇妙なほどはっきりと残っていた。




