第102話 ドラゴン進化計画
火山地帯を抜けたあとの土地は、まるで別の世界のように静かだった。
黒い岩と硫黄の匂いに満ちた荒野から離れると、地面は徐々に乾いた土へと変わり、ところどころに低い草が生え始める。遠くには小さな村の屋根が見え、その向こうにはなだらかな丘が続いていた。風もどこか穏やかで、火山の熱に満ちた空気とはまるで違う。
だが一行の表情に安堵はなかった。
先頭を進むカーボが鼻を地面へ近づけ、迷いなく走っていく。その後ろをマットたちが追っていた。
「匂い、まだはっきりしてる?」
アルエが問いかけると、カーボは短く吠えて答える。灰色の尻尾が力強く振られた。
ロイドが頷く。
「逃げた男は急いでいるみたいだね。足跡の間隔が広い。かなりの速度で移動している」
リーリヤは腕を組みながら周囲を見回した。
「そりゃそうでしょ。連絡するのが目的なんだから。向こうに知らせる前に捕まえたいところね」
マットは黙ったまま歩き続ける。背中には相変わらず黒い岩が担がれていた。火山地帯から持ってきたものだ。
アルエがそれを見て呆れたように言う。
「……まだ持ってるのそれ」
「重さがちょうどいい」
「この状況でトレーニングしてる人初めて見たわ」
「走れるなら問題ない」
実際、マットの歩調はまったく落ちていない。岩を背負っているとは思えない速度で歩き続けている。
ロイドは苦笑した。
「まあ、体力に関しては文句のつけようがないね」
やがて、カーボがぴたりと足を止めた。
耳が立ち、鼻が空気を探る。
ロイドが小さく言う。
「近い」
丘の向こうに、岩肌が露出した斜面が見えた。逃走者はその方向へ向かっているらしい。村へ入る様子はない。
リーリヤが目を細める。
「やっぱり村じゃないわね」
ロイドが頷く。
「偽装の可能性が高いと思っていたけど……どうやらその通りみたいだ」
丘を越えると、岩壁が現れた。
自然の断崖に見えるが、よく見ると岩の一部だけ色が微妙に違う。周囲よりも新しく、わずかに削られた跡がある。
その岩の前で、逃走者の男が立ち止まった。
息を切らしながら周囲を確認する。
連絡装置を取り出そうとしているようだった。
その瞬間。
背後から影が落ちた。
マットだった。
男が振り向くより早く、拳が首筋へ叩き込まれる。
鈍い音。
男の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。
「……連絡はさせない」
マットが短く言う。
ロイドがすぐに男の装備を調べた。
腰袋、通信石、書簡、護符。
通信石はまだ使用されていない。
「よし。報告はまだ行っていない」
ロイドは小さく息を吐いた。
リーリヤが男を軽く蹴る。
「これで中は何も知らないってわけね」
アルエは岩壁を見上げた。
「で、入口は?」
ロイドが岩の表面をなぞる。
「ここだ」
指で押すと、岩の一部がわずかに沈み込んだ。
低い音を立て、岩壁が横へと滑る。
暗い通路が現れた。
ロイドは静かに言う。
「当たりだね」
中は地下へ続く通路だった。
壁には魔力灯が埋め込まれ、淡い光が足元を照らしている。通路は思ったよりも広く、荷車でも通れそうな造りだった。人工的な石の加工跡がはっきり残っている。
「完全に研究施設ね」
リーリヤが呟く。
奥へ進むと、空気が変わった。
魔力の匂い。
濃い。
ロイドは思わず足を止めた。
「……すごい量だ」
広い空間に出る。
そこは研究室だった。
壁際には並べられた魔力保存容器。黒い石で作られたそれらの中で、赤や青の光がゆらめいている。中央には複雑な魔法陣と金属装置が組み合わさった巨大な装置が据え付けられていた。
その周囲には記録机、研究器具、書類の束。
そして。
床には羽が散っていた。
鮮やかな虹色。
アルエが顔をしかめる。
「……フェニックス」
ロイドは机の上の記録をめくり始めた。
ページを読み進めるごとに、その表情が変わっていく。
「なるほど……」
リーリヤが覗き込む。
「何が分かったの?」
ロイドは静かに言った。
「ドラゴン進化計画」
アルエが間抜けな声を出す。
「……は?」
ロイドは記録を指差した。
「ここに書いてある。モンスターを捕獲して、抽出した魔力を混合し、強制進化を誘発させる研究だ」
マットが言う。
「それが今までの事件か」
「そうだね」
ロイドはページをめくる。
「しかもこれはかなり大規模な研究だ。各地で魔力を収集し、それを属性ごとに分類して混ぜ合わせている」
リーリヤが眉を寄せる。
「気の遠くなる話ね」
「実際そうみたいだ」
ロイドは記録の一節を指した。
「ここにある。実験回数、三万七千二百六十三」
アルエが絶句する。
「……そんな数」
ロイドはさらに読み進める。
「でも最近、成果が出始めている」
ページを指で叩いた。
「安定進化の兆候」
マットが言う。
「マグマドレイクか」
ロイドが頷く。
「そうだと思う。あれは失敗じゃない。ドラゴン進化の途中段階だ」
リーリヤが机に寄りかかった。
「で、フェニックスは?」
ロイドは別の資料を取り出す。
そこには羽の図と魔力波形が描かれていた。
「進化安定剤」
「え?」
「フェニックスの魔力は進化暴走を抑えるらしい。だから大量に必要だった」
アルエが拳を握る。
「だからあんなこと……」
その時だった。
奥の通路から金属音が響いた。
全員の視線が向く。
ロイドが小さく言う。
「……研究員だ」
やがて、奥の通路から規則正しい足音が響き始めた。しかも一人ではない。硬い床を踏みしめる複数の靴音が、研究室の静けさを破りながら近づいてくる。次の瞬間、通路の向こうから鋭い声が上がった。
「侵入者だ!」
怒号は石壁に反響し、研究施設の奥まで響き渡る。その声とほとんど同時に、研究室の奥に設けられていた重い扉がゆっくりと開かれた。
その先に広がっていたのは、これまでの研究区画とは明らかに規模の違う、巨大な石室だった。天井は高く、壁面には古い時代のものと思われる巨大な支柱が並び、まるで地下神殿のような広がりを見せている。そしてその中央に安置されていたものを見た瞬間、アルエは思わず息を呑んだ。
それは――巨大な骨だった。
ただの骨ではない。長大な首の骨格、岩をも噛み砕きそうな巨大な顎、そして天井に届きそうなほど広がる翼の骨。かつてこの場所に君臨していたであろう生物の威容が、その骸だけでなおはっきりと伝わってくる。
ドラゴン。
肉も皮もすでに失われ、残っているのは乾いた白骨のみ。それでもなお、その姿から放たれる圧倒的な威圧感は、ただの死骸とは思えないほど濃密だった。まるで、この空間そのものが巨大な捕食者の気配をまだ記憶しているかのように、空気が重く沈み込んでいる。
ロイドが低く呟く。
「……ドラゴンの骨だ」
石室の床一面には、巨大な魔法陣が描かれていた。幾重にも重なる術式の線が、骨の周囲を囲むように配置され、中心へ向かって収束している。その複雑さは一目で分かるほど異様で、単なる保存や封印のための術ではないことがはっきりしていた。
研究員の一人が慌てた声で叫ぶ。
「警備個体を起動しろ!」
その命令と同時に、石室の各所に設置された装置が一斉に唸りを上げた。魔力を導く導管が青白い光を帯び、床の魔法陣へと流れ込んでいく。空気が震え、耳の奥で低い共鳴音が鳴り始める。
次の瞬間、骨の奥から軋むような音が響いた。
最初に動いたのは顎だった。乾いた骨同士が擦れ合い、ゆっくりと上下に開閉する。その動きに合わせて、巨大な頭骨がわずかに持ち上がる。
そして、空洞だった眼窩の奥に、赤い光が灯った。
まるで眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ますかのように。
ロイドの声が低くなる。
「……まずい」
次の瞬間、骨格の翼が軋みながら持ち上がった。巨大な骨の影が石室の壁一面に広がり、灯りを遮って揺らめく。その影はまるで、生きているドラゴンそのものが立ち上がろうとしているかのような迫力を持っていた。
生命はないはずの骸骨。
だが、流し込まれる魔力によって、その骨は確かに動いている。かつて世界の頂点に立った捕食者の残滓が、本能だけを呼び覚まされ、ゆっくりとその巨体を起こそうとしていた。
スケイルドラゴン。
研究所の番人として安置されていた、死せる竜の骸が、今まさに目覚めようとしていた。




