第10話 初めての街
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの時間に、俺たちは家の前に集まっていた。
街へ行く。
たったそれだけのことなのに、空気はいつもと少し違う。いつもの朝なら、俺は畑に出る前に軽く体を動かし、アルエは眠そうな顔で家から出てきて、カーボは気ままに尻尾を振っている。それが今日は、母さんが荷物を何度も確認し、父さんが馬車の車輪や荷台の縄を見直し、アルエはいつもより早起きしたせいで妙に目だけがらんらんと輝いていた。
「忘れ物はないわね」
エルザが小さな革袋を腰に吊るしながら言う。袋の中には路銀や身分証代わりの札、簡単な薬草、包帯、それに水筒が入っているらしい。
「母さん、そんなに必要?」
「必要よ。あなたは街がどこだと思ってるの」
「村の外」
「そうだけど雑すぎるわ」
呆れたように返される。
マエストロは馬の代わりに、家で使っている荷引き用の大きな山羊に似た魔獣――角ウシを荷車に繋いでいた。牛ほど重くなく、馬ほど気性も荒くない。山道にも強いので、村ではよく使われる。
「よし、こっちも問題なし」
父さんが荷車の板を軽く叩く。
その横で、リーリヤが少しだけ唇を尖らせていた。
「いいなあ。わたしも行きたい」
「今回はだめ」
エルザがきっぱり言う。
「なんでよ」
「なんでって、今回は買い物じゃないの。登録とか手続きとか、ややこしいことをしに行くのよ」
それから、ちらりと俺とカーボを見る。
「あと、この子たちがややこしさの塊だもの」
確かに。
カーボは今も荷車の横で堂々と座っている。村の山狼などより一回りどころではなく大きい。今では俺が両腕で抱えようとしても無理だろう。褐色の毛並みには艶があり、白いラインが背を流れるように走っている。見慣れてしまっていたが、改めて見ると普通に迫力がある。
「ワン」
本人は全く気にしていないようだ。
リーリヤはしゃがみ込むと、カーボの首に抱きついた。
「いい子にするんだよ」
カーボは大人しくされるがままになり、ぺろりと姉の頬を舐めた。
「きゃっ、もう」
その様子を見てアルエが笑う。
「街に帰ってきたらお土産買ってきてあげるわよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「じゃあ、赤いリボンがいい!」
アルエは一瞬だけ困った顔をした。自分も買い物目当てで行くわけではないと気づいたのだろう。
「……あったらね」
「絶対だよ!」
リーリヤはそこだけは譲らないらしい。
そんなやり取りをしている間にも、俺の胸は妙に落ち着かなかった。
街。
村の外。
冒険者ギルド。
言葉では何度も聞いてきた。父さんの昔話にもよく出てきたし、絵本にも街の挿絵くらいはある。だが、実際に自分の足で行くとなると話は別だ。村の端の森と畑、それに家々。それが俺の世界だった。
その外に、まだ見たことのない世界がある。
そう思うと、わくわくと同時に、体の奥が少し熱くなる。
「よし、行くぞ」
マエストロの声で、俺たちは荷車に乗り込んだ。
エルザとアルエが後ろの荷台に座り、俺は荷台の縁に腰掛ける。カーボは最初、当然のように荷車に乗ろうとしたが、体が大きすぎて普通に邪魔だった。
「無理よ」
「ワン?」
「歩きなさい」
エルザに言われ、カーボは少しだけ耳を伏せたものの、すぐに諦めて荷車の横に並んだ。
村を出る時、数人の村人とすれ違った。
皆、こちらを見て、それからカーボを見る。
「……でかい犬だな」
農具を担いだおじさんがぼそりと言う。
マエストロは何でもない顔で答えた。
「猟犬だ」
「猟犬……?」
おじさんは明らかに納得していなかったが、カーボがきりっとした顔で「ワン」と鳴くと、なぜかそれ以上は突っ込まれなかった。
いや、むしろ怖かっただけかもしれない。
村の柵を抜ける。
いつもなら畑や森に向かう分かれ道を通り過ぎ、街道へ入る。
道は思ったよりも広かった。荷車が二台すれ違えるくらいにはある。土を固めた道だが、ところどころに車輪の跡が深く刻まれていて、それなりに人の往来があるのがわかる。
「へえ……」
思わず声が漏れる。
「何よ」
アルエが横から覗き込む。
「いや、もっと獣道みたいなのを想像してた」
「どんな田舎者の発想よ」
「田舎者だし」
「それはそう」
アルエはあっさり頷いた。
その割に彼女も落ち着きがない。座ってはいるが、きょろきょろと周囲を見回し、遠くの丘や森の切れ目、すれ違う旅人の荷物まで目で追っている。
「そんなに珍しい?」
「珍しいわよ。だって街よ?」
「まだ街じゃないけど」
「街に続く道ですら街なの」
よくわからない理屈だが、アルエなりに気分が高揚しているらしい。
しばらく進むと、父さんがいきなり前を指差した。
「あそこ見ろ」
視線の先。少し離れた岩場の上に、角の生えた灰色の獣が立っていた。山羊に似ているが足が長く、背中の毛が逆立っている。
「何あれ」
「ロックゴートだ」
マエストロが答える。
「群れで来ると畑荒らしには厄介だが、一匹だけならそう怖くはない」
「食べられる?」
思わず聞くと、エルザが呆れた顔をした。
「最初にそこへ行くの?」
「筋肉にはタンパク質が必要だから」
「ぶれてないわね……」
そのロックゴートはこちらをしばらく見ていたが、荷車の横を歩くカーボを目にした瞬間、目に見えて体をびくつかせ、そのまま崖の向こうへ飛び降りるように逃げていった。
「逃げた」
「そりゃ逃げるわよ」
エルザが言う。
「今のカーボ、森の中じゃかなり上位の捕食者よ」
カーボは何のことかわからない顔で鼻を鳴らした。
「ワフ」
道中、マエストロは昔の話をしてくれた。
街で依頼を受けたこと。
森の奥の遺跡に潜ったこと。
魔物の群れに遭遇して、エルザと二人で崖を滑り降りながら逃げたこと。
「逃げたんだ?」
「逃げる判断も実力のうちだ」
父さんは胸を張った。
するとエルザが冷たく言う。
「本当は足を滑らせただけだけどね」
「……細かいことは気にするな」
アルエがくすくす笑う。
「なんか、ほんとに冒険者って感じね」
「ほんとに冒険者なんだけどな」
マエストロはやれやれと肩をすくめた。
話しているうちに、景色が少しずつ変わっていく。
畑は減り、背の低い雑木林が増える。道も緩やかな起伏を繰り返し、ところどころで小川を渡る。途中で旅商人らしき一団とすれ違った。荷車の横にぶら下がった干し肉や布の束が揺れている。
向こうもこちらを見て、カーボに気づき、二度見した。
「……あれは?」
「犬だ」
また父さんが即答する。
商人の方はしばらく黙っていたが、結局深くは聞かなかった。世の中には触れない方がいいこともある、という顔だった。
そうして半日近く進んだ頃。
街道が緩やかな丘を越える。
その先で。
俺は思わず息を止めた。
「……でかい」
目の前に広がっていたのは、高い石壁に囲まれた街だった。
村とは比べ物にならない。
城壁はまるで崖のように高く、その上には見張り台がいくつも立っている。大きな門の前には荷車の列ができ、旅人や商人が行き交い、衛兵が一人一人を確認していた。
壁の向こうには赤茶色や灰色の屋根がぎっしり並び、その奥にはさらに高い建物まで見える。
「すご……」
アルエの声が震えていた。
「これ、全部街なの?」
「そうよ」
エルザが少しだけ誇らしそうに答える。
「この辺りじゃ一番大きい街だもの」
荷車は門前の列へ並んだ。
前には商人の一団。後ろには木材を積んだ荷車がいる。人の声、車輪の軋む音、獣の鳴き声。村では聞かない音がいくつも混じり合っていた。
そして当然のように、問題が起きる。
「……その狼はなんだ」
門番がこちらを見て言った。
槍を持った衛兵だ。顔は真面目そのもの。
だが視線は明らかにカーボに釘付けだった。
そりゃそうだろう。
荷車の横で堂々と座るダイアウルフ級モンスターなど、どう見ても不審だ。
マエストロが落ち着いた顔で答える。
「猟犬だ」
門番の眉がぴくりと動いた。
「……猟犬?」
「ワン」
カーボがタイミングよく鳴く。
門番はしばらく黙り込んだ。
いや、ものすごく悩んでいる顔だ。
「その……随分立派な猟犬だな」
「よく食うからな」
マエストロが平然と言う。
さすがに無理がある気もする。
門番はエルザの方に視線を移した。
「あなたは?」
「冒険者よ」
エルザが簡潔に答え、腰の札を見せる。
「ギルドに用があるの。この子たちも」
門番は札と俺たちとカーボを見比べた。
「……なるほど」
完全に納得はしていない顔だったが、やがて門を開けるよう隣の衛兵に合図する。
「騒ぎは起こさないでくれ」
「善処するわ」
エルザの返事はやや曖昧だった。
そうして、俺たちは街の中へ入る。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
人の数が違う。
道の広さが違う。
並ぶ店の数が違う。
右を見れば、焼きたての串肉を売る屋台。左には革鎧や短剣を並べた露店。その先では鍛冶屋が槌を振るい、別の通りでは薬草や香辛料の匂いが混ざって漂ってくる。
アルエは完全に目を輝かせていた。
「すごい……すごい……!」
「落ち着きなさい」
「無理よ!見て、あの杖!あっちはローブ!ねえ、あれ魔石売ってるんじゃない!?」
忙しいやつだ。
俺も俺で落ち着いているわけではない。むしろ、視界に入るもの全てが新鮮だった。
鎧を着た男たち。
大剣を背負った女。
魔物の牙を紐で束ねて売っている露店。
干した肉。
巨大な盾。
そして道行く誰もが、少しだけカーボを見る。
そりゃ見るだろうな。
「ワン」
カーボだけはご機嫌だった。
尻尾をぶんぶん振りながら歩いている。時々屋台の匂いに鼻をひくつかせるが、勝手に飛びついたりはしない。えらい。
しばらく通りを進み、やがて一際大きな建物の前で荷車が止まった。
木と石で造られた頑丈そうな建物。
入口の上には大きな看板。
剣と盾を交差させた紋章。
周囲には武装した男女が何人も出入りしている。
中からは笑い声、怒鳴り声、酒の匂い。
俺は無意識にその建物を見上げていた。
「ここが……」
エルザがうなずく。
「ええ」
そして短く告げる。
「冒険者ギルドよ」
その瞬間、中から出てきた冒険者らしき男が、俺ではなくカーボを見て足を止めた。
「……なんだ、あの狼」
その一言で、周囲の視線が一気にこちらへ集まる。
扉の向こうのざわめきが、少しだけ静かになった気がした。




