第96話 セオドア卿
「殿!」
悠長に地上にいる敵と議論を交わしているダンケルト伯に対して、騎士ジョアンは若干のいらだちを込めて、鋭く声をかけた。
「なんだ?」
「黒躯が近づいてきています。もはや一刻の猶予もございません!」
ジョアンは抜いた剣を構え、その背中で領主を守りながら、ゆっくりと近づいてくる黒躯を睨みつづけた。
数刻前まではともに領主を守っていた仲間だった。全員がその家族を知るような古い付き合いであった。そんな仲間たちを、いかに主人を逃すためとはいえ犠牲にするような判断をしたのは自分である。
表情の欠落し、生きている頃とは別物に成り果てた黒躯の顔を見るたびに、そんな罪悪感が心を締め付ける。
しかたがなかったのだ。
ジョアンはそう自分に言い聞かせ、いまはクローヴィス卿を逃すことだけに集中することにした。
「ブノワ、お前も剣を抜き、構えろ。奴らを近づけさせるな」
「承知!」
ブノワは領主を支えていた手を離すとジョアンの隣に並ぶ。支えを失った領主は倒れそうになり、慌てて鋸壁にしがみついた。
その視界がルーファスの背後に立つテオドーラの姿を捉える。
領主は、正気を失ったかのように高らかに哄笑した。
「テオドーラ!」
屋敷で謁見しているときを思い出させるような、太く力強い声で、たった一人の血を分けた子どもの名前を叫ぶ。
テオドーラは、その声にびくりと身体を震わせ、隣にいたノーマの腕に手を伸ばし、その肌にそっと触れた。その指は氷のように冷たく、そしてひどく震えていた。
「お父様!」
テオドーラは震える声で叫んだ。
自然とその瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「テオドーラ!」
領主はふたたび名を叫んだ。
「なにをしている! この役立たずが! いますぐ父を助けよ!」
髪を振り乱し、真っ赤な顔でわめき散らすザイオン伯の後ろでは、騎士ジョアンとブノワが迫りつつある黒躯を近づけまいと必死に剣を振りまわしている。だが、明らかに多勢に無勢。逃げ場のない領主たちの命運は、いまにも尽きるかのように思えた。
ふと、領主の視線がテオドーラの近くにいた修道女の姿を捉えた。途端に怒り狂っていたクローヴィス卿の目がさらに吊り上がる。
岩のように固まり、なにも答えない娘に対し、いままで以上の大音声で叫んだ。
「テオドーラ! そこにいる悪魔の娘の首を刎ねよ! そやつを殺せば黒いやつは動きを止める!」
突然の指名にミアは驚いて目を見開いた。
振り返ったテオドーラに対して、激しく首を横に振る。
「わたしが死んでもおそらく黒躯は動きを止めません。もはや、あれはあれで独自に存在しているのです」
ミアの説明にテオドーラは頷く。
そして、その瞳に意志の光が灯る。覚悟が決まった。
テオドーラは、ちらりと隣のノーマを見ると、一瞬微笑み、ふたたび険しい表情で父親に向き直った。
「お父様!」
凛とした力強い言葉。
領主は、怪訝そうに眉をぴくりと動かした。
「お父様、領主たるもの領民を守らねばならぬとおっしゃられていたのを幼き頃から聞いておりました。わたくしもそう思います。しかし、いまのお父様はいかがでしょう? 領民よりもご自身の保身ばかり……。領民を思い遣れぬ領主は、領主ではありません!」
「否、否、否‼︎ 余こそがザイオンなのだ。市民はいくらでも替えがきく。都市も焼けたら再び築けばいい。ダンクルト伯爵家だけは損なわれてはならないのだ」
クローヴィスⅡ世は、唾をまき散らしながら叫んだ。髪を逆立て、その双眸を血走らせながら、口角に泡を浮かべる姿には〝美丈夫卿〟と呼ばれていた面影は微塵も残されていない。
テオドーラは涙を流しながら叫んだ。
「ならば、わたくしが伯爵家を継ぎます! わたくしが領民を守ります!」
その言葉にクローヴィスⅡ世は笑いだす。
「なにを言う! おなごのお主が伯爵家を継ぐことなど不可能だ! そもそも王が許さぬわ!」
「いいえ! お母様が亡くなられてから社交の場から遠ざけられていたわたくしのことなど、国王陛下をはじめ諸侯の皆様はなにも存じ上げていないはず。違いますか?」
テオドーラの力強い反駁に、領主は顔を歪めつつ言葉を詰まらせる。
その表情を見て、テオドーラは泣き腫らした顔で満足げに微笑むと、護身用に持たされていたであろう豪華な装飾が施されたナイフを取り出し、天にかざした。
「お父様! あなたの娘は、いまここで死にます!」
「ま、待て!」
父親の制止も聞かず、テオドーラは鋭利な刃を自身の首元に近づける。
ぶつり。
テオドーラは片手で豊かな金髪を束ねると、ためらうことなくナイフで切り落とした。
その手からこぼれ落ちた金髪が、風に舞いながらキラキラと朝日に溶けていく。
ボサボサの短髪となったテオドーラは、父親を見据え、一言ずつ噛み締めるように言った。
「たったいまから、わたくしはダンクルト伯爵家の嫡男セオドアです」
握りしめていた金髪の束を宙に放つ。
強い決意の光を瞳に宿したテオドーラの顔は、父親譲りの美しさをさらに凛々しいものへと昇華している。
領主は、口を開けたまま、しばし言葉を失う。
そしてすぐにその顔を真っ赤に染めて、かすれる声で吠えた。
「何を言っているんだ、テオドーラ‼︎」
激昂し、腰に履いていた伯爵家伝来の宝剣を抜くと、テオドーラに向けて投げつけてきた。
ぴくりと身体を震わせ、目を閉じるテオドーラだったが、背後に立っていたノーマがその肩を掴み、ぐいっと引き寄せながら、代わりに自身が前に立つと、小剣で領主の宝剣を払い落とした。
「お姫さん、やるじゃないか。レティシアも真っ青の名演説だな」
ノーマはにこやかに微笑むと、パチンと片目をつむる。テオドーラは、頼れる姉貴分の賛辞に、心から嬉しそうな笑顔をこぼす。
それでもテオドーラは落ち着いた声でノーマをたしなめた。
「お姫さんじゃありませんよ。わたしくは、次のダンクルト伯爵セオドアです」
まだあどけなさの残る顔で、唇を強く引き締めながらノーマを見つめる姿に、思わずノーマはテオドーラを抱きしめてしまう。
そのとき、
「ぎゃあーー!」
凄まじい悲鳴が広場に響き渡った。
塔の上では、必死に領主を守っていた騎士ジョアンとブノワも黒躯の数に押され、すでに彼らの仲間へと身を落としていた。
「寄るな! お前ら! ダンクルト伯爵家の誇り高い騎士の心はどこに行ったのだ!」
領主は喚きながら黒躯の群れを追い払おうとする。しかし、頼るべき宝剣を失った領主は、たちまち黒躯と化した騎士たちに囲まれてしまう。
「テオドーラ! テオドーラ! テオドーーーラ‼︎」
クローヴィスⅡ世は、断末魔のように何度も娘の名を叫ぶ。
黒躯たちは、生みの親であるミアに命じられたとおり、領主を仲間にするのではなく、その汚れた爪で、拳で、その歯で、領主を傷つけ、その命を奪い去ろうとする。
ぼろ布のように蹂躙された領主は、やがて、その命を失うこととなった。
黒躯たちがその動きを止めたことを確認すると、ナタリアが淡々と言い放った。
「終わったようだな」
ミアは、自らが授けた命令によって失われた命を悼むように、ぎゅっと目を閉じ、フェリシア教の祈りを捧げる。
ノーマは、領主が投げつけた剣を拾うと、放心するテオドーラに手渡した。
「これは、お姫……あんたのもんだ」
歴代の当主が、数々の騎士たちを叙勲してきた剣を受け取り、テオドーラは少し寂しそうに微笑んだ。その日焼けもしていない細い腕には、豪華な装飾が施された宝剣はまだ少し重いようであった。
そんなテオドーラに、少し逡巡しながら、ふたたびノーマが声をかける。
「……なあ、セオドア卿だっけ?」
「はい」
セオドアは嬉しそうに笑う。
「オレは、あんたの盾になるって決めた。必要ならば剣にも矢にもなる。だから誰にも負けず、良い領主になってくれ」
ノーマは少し恥ずかしそうに頬を掻きながら言う。
そんな年上のノーマを、セオドアは慈愛の表情で見つめながら礼を告げる。
「ありがとうございます。ただし、ノーマ殿、わたくしに仕えるのであれば、一つだけお願いがあります」
「……なんだ?」
心当たりのないノーマは怪訝そうに小首を傾げた。
セオドアは、そんなノーマに歩み寄ると、その筋肉質な両腕に手を添えた。
少し顔を赤らめながら言う。
「……お願いですから、もう少し服を着てください」
思わずナタリアが爆笑し、モイラが真面目な顔で深々と頷く。
そんな仲間たちの姿をルーファスは、優しい表情で見つめていた。
長かった夜が終わり、朝日が街に差し込んできた。
眩しそうに目を細めながら、フィンはルーファスの元へと歩み寄る。
「終わったね」
ルーファスはそんなフィンの言葉に黙って頷いた。
「そうだな」
どことなく寂しそうな笑顔で微笑んだ。
こうしてヴィード門を舞台とした戦いは終幕を迎えた。




