第8話 外尾燐
振り向くと、そこには同級生の外尾燐が座っていた。
いつも黒っぽいズボンにブラウスやシャツを着ていて、顔の大部分を黒い前髪とメガネに覆い隠されていた。異性の目を引くような特別な容姿があるわけでもなく、膨らみを感じない体型と真っ黒なショートボブは、無垢な少年少女のような印象を与えるものであった。
宏基や未央、侑輔たちと同じく山村七海先輩から指導を受けているため、一緒に練習することも少なくはないが、まともに話したのは初めてかもしれない。
仲間たちの輪の中にはいるものの、率先して誰かを誘ったり、強くなにかを主張することもない。宏基にとって外尾燐は、ただ、いつもそこにいるだけの存在であった。
「え、システマなの?」
「……うん」
話しかけてきた宏基から、なんとなく視線をそらしながら、燐はこくんと大きく頷く。
システマとはロシア軍の特殊部隊で生み出されたという格闘術で、身体能力を最大限に引き出すために、逆説的にも聞こえるが、余計な力を抜いてリラックスすることを重視している。素手だけでなくナイフや銃なども扱うが、決まった技や動きもなければ、型も構えもなく、澱みのない動きの中で臨機応変に相手を制圧することを目的としていた。
宏基の師である山村七海も本格的に学んでいるため、少しだけ見せてもらったこともあるが、反動をつけない自然な動作で打ち出された拳が異常に重くてびっくりしたことがあった。
七海はそのパンチのことを「ストライク」と呼んでいた。七海いわく、金属バットの重さは一キロにも満たないが、人間の腕は女性の片腕でも三キロほどある。その質量をそのままぶつけるのだという。
「花先輩、元々は合気道をやっていたんだけど、七海先輩にシステマを教わってからハマったみたい」
燐はやや低めの小さな声で説明した。
それを聞いていた侑輔が悲嘆の声を漏らす。
「えー⁉︎ 俺だってシステマ習いたいけど、七海先輩、教えてくれないじゃん! なんで花ちゃんは教わってんの?」
酒に酔った侑輔のコントロールを失った声量にびくりと身を震わせながら、燐は「……同級生だから、かな?」と小声で答えた。
宏基は笑いながら、
「侑輔、お前、そう言うけどさ、ちょっと前に七海先輩にシステマのパンチを喰らって死にかけてたじゃん。あのとき一緒にパンチとか教わっただろ?」
「教わりました! あれ、難しかったですよねー。 わたし、どうしても力を抜くのがうまくできなくて……」
未央が悔しそうに顔を顰めながら言う。
七海に教わったとき、未央は力が入りすぎて、どうしても威力のあるストライクが打てなかった。一方で侑輔は力を抜きすぎて「赤子のパンチ」と七海に酷評されていた。拳にだけ力を込めて、それ以外は全身リラックスさせるのがコツらしい。
「七海先輩、脱力さえできていれば、体重の軽い女性でも威力のあるパンチを打てるようになるって言ってましたよね」
「あー、言ってたね。 でもさ、未央もそうだけど、やっぱ攻撃することを意識しすぎて、無意識のうちに力が入っちゃうんだよな」
宏基は未央の言葉に笑いながら答えると、グラスに残っていたウィスキーを口に含んだ。高濃度のアルコールが灼けるような刺激を残しつつ喉から胃へと駆け抜けていく。宏基はさらに頬が熱くなるのを感じた。そして自分の状態を顧みて、ふと思いつく。
「酔っ払ったら、脱力できんじゃないの?」
その言葉に侑輔と未央は笑い出し、燐は少し驚いたように目を丸くした。
未央が「酔拳じゃん!」とツッコむと、すでに酔いが回りきってリラックスしまくっている侑輔は、豪快に笑いながら「花ちゃんにもお酒飲んでもらおうぜー!」と騒ぎ出す。そんな後輩の醜態から目をそらすように、宏基は遼太郎へと視線を戻した。
小柄な花は、身長が遼太郎の胸あたりまでしかない。
だが、その大人と子どものような身長差にも気圧されることなく、満面の笑顔で遼太郎の目の前に立つ。
「花ちゃん、お願いします!」
遼太郎の野太い挨拶に、花は無言で頷き返すと、そっと遼太郎の腹部に拳を当てる。そして遼太郎の顔を上目遣いで見上げると「行くよ?」と告げた。
遼太郎が頷いた次の瞬間、花は腕をすっと引き、そのまま小さな拳を遼太郎の腹部に打ち込んだ。
大きく振りかぶることもなく、肘を直角に曲げたままの拳は、動作の軽い見た目に反する凄まじい衝突音を響かせる。
「……うぁ!」
遼太郎は、想像していなかった衝撃に顔を歪め、身体をくの字に折り曲げた。そして、内臓を揺らす激痛に、たまらず床へと倒れ込んでしまった。
その光景に座敷にいたサークルメンバー全員が息を飲み、束の間の静寂に包まれる。
花の勝利だった。
やがて、静寂がざわめきへ、ざわめきが歓声へと変わっていく。
「やったー!」と嬌声を上げ、無邪気に喜びをあらわにする花を、周囲から祝福の声が取り囲む。
「すげえ、花ちゃん!」
「なんだ、いまの?」
「遼太郎、大丈夫か⁉︎」
打ち倒された遼太郎は床に座ったまま、勝者の花を見上げていた。痛みと疲労でぐったりとしながらも、口元には笑みを浮かべている。
「いやぁ……花ちゃん、ヤバいっすね。……参りました」
遼太郎の敗北宣言に、花はグラビアでよく見かけるとっておきの笑顔で応えた。
未央と侑輔は、なにが起こったのか理解できず、しばらく口を開けたまま呆然としていた。
やがて未央は不満げな口調で宏基に尋ねてくる。
「……花先輩、だいぶ適当だったじゃないですか? 遼太郎先輩、絶対に効いてないですよね⁈」
それを聞いていた侑輔は「花ちゃんだから、手を抜いたんじゃね?」と軽口を叩く。
宏基は苦笑いしながら、
「花先輩が可愛いのは事実だけど、手は抜いてないだろ」
とやんわりと嗜めた。
未央が指摘するとおり、武術や格闘技で基本とされる直線的な突きからすれば、花の打撃はその基本から外れたものである。だが宏基からすれば、花が打ち込んだ拳は、七海先輩に以前見せてもらったシステマのストライクそのものであった。花がストライクを再現していることも驚きだったし、改めてその威力にも驚かされていた。
「宏基先輩も花先輩を擁護するんですね!」
「やっぱ、アイドルはいいよなー!」
未央と侑輔が結託して宏基を非難しはじめる。
やがて未央は意を決したように「わたしも遼太郎先輩を殴ってきます!」と宣言し、遼太郎を中心に賑わう宴席の中心へと走り去っていった。侑輔も酔っ払い特有のフットワークの軽さで、これから起こるであろう娯楽を求めてその後を追いかけていく。
席に取り残された宏基は、ため息をつくとテーブルの上に置かれたグラスへと手を伸ばした。だが、すでに空になっていることに気がつくと、再びため息を漏らす。そこでテーブルの反対側に座っていた燐と目が合った。
「……ども」
「……うん」
しばらく無言の時間が流れる。
やがて燐から恐る恐るといった感じで話しかけてきた。
「宏基くん、さっき、酔っ払うと脱力できるかもって言ってたじゃない? あれって本当だと思う?」
「あー、その話? ……うーん、どうだろうね?」
燐の言葉に相槌を打ちながら、宏基は少し考え込むと、やがて、
「脱力できても、技の精度は落ちるよね?」
と答える。
燐はその言葉に嬉しそうに幾度も頷いた。
「だよね。あたしもそう思った」
ニコニコと微笑む黒縁メガネの同級生に、宏基は初めて興味を示した。
「……燐は、なにやってんだっけ?」
「忍術。昔、合気道をやってたんで、体術メインで」
少し照れ臭そうに答える燐。宏基は「へえー」と感心したように相槌を返した。
「合気道かー。いまちょっと興味あるんだよね」
その言葉に燐は嬉しそうに微笑んだ。
「私も花先輩と同じ道場で習ってたんだ。このサークルに入ったのも花先輩がいたから。……まさかアイドルになるとは思ってなかったけど」
そう言うと燐は控えめに笑った。
「本当、それだよな」
宏基も同調して笑う。
「ちなみに合気道ってどんな感じなの? 七海先輩から教わってる体術とは、やっぱ違うのかな?」
「……そうだね……」
宙を睨むように思案する燐。その黒縁のセルフレームの奥に理知的に輝く瞳を見つけ、宏基は驚く。そのとき初めて外尾燐という平凡な同級生に他人と違う個性があることに気がついた。
「七海先輩の体術はどちらかというと柔術的だけど、合気道はちょっと剣術っぽいのかな? ……よくわかんないけど」
「へえ、面白いね」
宏基は感心したように答えた。
「俺、剣術もやってるから興味あるな。ちょっと教えてよ」
宏基の依頼に、燐は少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら「いいよ」と答えた。
「じゃあ、まずは脱力の実験で」
宏基はそう言うと、近くのテーブルから中身の残ったワインボトルを持ってきて、凛の前にトンッと置いた。燐は初めて声を上げて笑った。
「ふふっ……了解」
それからの記憶は曖昧だ。
どうやらアルコールによる脱力は、筋力ではなく、主に記憶力に作用するようだ。
意気投合した宏基と燐は、ワインボトルを空にするとその勢いで居酒屋を抜け出し、近くの公園で合気道の体験会を開催することになった。参加者は燐と宏基の二人だけである。
街灯に照らされた夜の芝生広場で、燐に掴みかかっては投げられる宏基。全身芝まみれになりながら、互いに手を掴み、交互に技を掛け合っていく。
やがてアルコールに足元を取られ、バランスを崩した二人は、もつれるように倒れ込んだ。燐から小さな悲鳴が上がり、すぐに無言になる。
芝生の上で身体を重ねたまま、荒い息遣いに激しく上下する相手の胸の動きを互いに感じていた。
やがて、
「……ごめん」
「うん、大丈夫……」
そういうと、宏基は燐の上から転がるように身を離し、そのまま芝生の上へと仰向けに寝そべった。
ふうっと大きく息を吐くと、
「……腹減った〜」
わざとぶっきらぼうに言い放つ。
燐はその言葉に小さく笑い声を漏らすと「そうだね」と相槌を返した。
お互いに芝生の上に横たわり、天上の欠けた月を見上げる。星の見えない都会の夜空に灰色の雲。夜風が頬を撫でるように吹き抜けていく。梅雨が明けたと思いきや、いきなりの夏日続きであったが、まだまだ夜の風には涼しさが残されていた。
やがて、宏基は上半身だけ起こすと「うちで飲み直さない? コンビニでなんか買ってさ」と告げる。
燐は寝転んだまま、少し恥ずかしそうな笑顔を向けると宏基に答えた。
「いいよ」
そして黙って宏基に手を差し出し、宏基はその小さな手を握りしめた。




