第7話 古武術研究会の夜
昨夜は大学の最寄駅にある居酒屋で、サークルの飲み会が開かれていた。
宏基が所属するのは「古武術研究会」という名前のサークルで、日本に古くから伝わる武術を学び、その技に内包される身体操作の技術を研究することを目的とする、いわゆる漫画研究会や落語研究会と同じような文化系の研究会であった。
だが、最近では古武術以外にも空手、合気道、中国武術や総合格闘技なども研究する者も増え、身も蓋もない言い方をするならば、戦闘技術であればなんでも興味を示す、だいぶ節操のない集団になりつつあった。
宏基も古流剣術を中心に教わっていたが、ときおり体術や手裏剣も練習していた。宏基の指導役である山村七海先輩などは、古流剣術、忍術、さらにはロシアの軍隊格闘術まで、それぞれの専門道場に通って学んでいるくらいである。
そんなサークルの飲み会では、お酒が進むと自然発生的に実技指導が始まってしまう。
新歓コンパの席でも、冷やかしに来たフルコンタクト空手経験者の新入生を七海先輩が派手に吹っ飛ばして、居酒屋から出入り禁止を喰らったのも懐かしい思い出だ。
昨夜の飲み会でも、それまで和気藹々と武術や趣味、大学の授業などを話題に花を咲かせていたが、いつものごとく誰かが「腹を殴ってみろ!」と言い出したことをきっかけに「最強のお腹コンテスト」——つまり誰がいちばん腹部への打撃を耐えられるかという居酒屋の座敷席にはふさわしくないゲームが繰り広げられることとなった。
現在、連勝中なのは宏基の旧友、有坂遼太郎だ。
その恵まれた体格を生かし、頑強な腹筋だけで、さまざまな武芸を修めた先輩たちのパンチを耐え抜いている。
「遼太郎、すげえな、あいつ……。乃々香先輩の突きも耐えやがった……」
宏基は、少し離れた席からその様子を観戦しながら、友人の勝利に驚きを隠せなかった。同じ席で歓談していた後輩の関口未央と三宅侑輔も祝福の拍手を送る。
「遼太郎さん、これで五人抜きっすね!」
「乃々香先輩、一本拳じゃないですか。えげつなさすぎでしょ……」
「そして、それすらも耐える遼太郎の腹筋……」
関口未央、続けて宏基も呆れたようにつぶやいた。
一本拳とは、普通に拳を握るのではなく、拳から人差し指や中指の第二関節だけを突き出すように握ったもので、いろいろな武術において人体の急所を攻めるために用いられている。サークルの副部長である男鹿乃々香が学ぶ沖縄空手でも頻繁に登場する攻撃の一つだ。
確実に急所を貫いたと思っていた乃々香は、遼太郎が倒れることなく耐えていることに「なんで効かねぇんだよ?」と不満の声を漏らす。
忌々しげに舌打ちをすると、ショートパンツから露出させた肉感的な白い脚で遼太郎の脛を軽く蹴り上げた。その反動で大きく胸元が開いたブラウスから常にはみ出している豊かな膨らみが波打つように揺れる。
乃々香は悔しそうに「覚えてろ!」と捨て台詞を残し、席に戻っていった。
その様子を後ろで見ていた長身の女性が、クスッと笑い、
「次は、私ね」
落ち着いた声とともに遼太郎の前へと足を進める。
武器術全般を修めるが、なかでも薙刀術を得意とする部長の古澤美南だ。
アジア系のクォーターだというエキゾチックな顔立ちに、ファッションモデルのような長身。その所作の美しさは穿いているロングスカートが日々の稽古で身につけている黒袴のように錯覚するほど常に研ぎ澄まされていた。
男性としても背の高い部類に入る遼太郎とほぼ同じ目線の高さで美南は微笑み、屈強な後輩に向けて「よろしくね」と告げる。
「お願いします!」
遼太郎は敬意を込めて丁重に頭を下げた。
美南は黙って頷くと、重心を落として身構え、すうっと息を吸い込む。それまでの穏やかな表情が一転、見る者を焼き尽くすような強烈な眼光を放ち始めた。
離れた場所で観戦していた宏基たちもその異様な雰囲気に言葉を失い、美南の腰に引かれた右拳から視線を離せなくなる。
居酒屋内の緊張が高まり、やがて最高潮を迎えた瞬間、弾かれたように美南は動いた。
気合一閃、薙刀で鍛え上げた膂力が強烈な突きを放つ。全身の推進力を余すことなくまとった美南の右拳は、遼太郎の腹部に突き刺さった。
「ふんっ‼︎」
遼太郎は爆発するように鋭い気合を放ち、全身の筋肉を硬直させる。
バキッという鈍い激突音が居酒屋の座敷内に響き渡った。
そして一転して、静寂——。
一瞬の間を置いて、ふーっと長いため息を吐いた美南。
「やっぱ無理かぁ」
と、恥ずかしそうに頬を染めながら微笑んだ。
少し痛そうに殴った右手を振っている。
遼太郎は別人かと思えるほど顔を歪め、食いしばった歯の隙間から「おぉぉぉぉ……」と低い唸り声を漏らしながら、打ち込まれた激痛に耐えていた。
その様子に美南は笑い声を漏らした。
「遼太郎くん、私の負けだね。敗因は?」
「……えっと……体重っすかね?」
遼太郎は、まだ苦悶の余韻を表情に残しつつ、かすれた声で答える。
「たぶん、美南さんが、もうちょっと体重あったら、やられてましたね……」
女性に対してセンシティブな話題のはずだが、もちろん遼太郎に悪意はない。武道や格闘技の中には体重別に階級が分かれている競技もあるため、美南も気にする様子もなく、むしろ微笑とともに遼太郎の言葉を受け止めた。
「いやあ、かなりヤバかったっすよ……」
遼太郎は笑いながら着ていたTシャツの裾をめくって、数々のパンチを受け止めた腹部を晒す。
逞しく隆起した腹筋がこの過酷なゲームによって真っ赤に腫れ上がっていた。宏基の位置からは皮膚の外にまで血が滲み出しているようにも見える。その惨状に、観戦していた他のサークルメンバーたちの間からも「うわあ……」という絶句の声が漏れた。
対戦した美南にも「大丈夫?」と心配されつつも、遼太郎はさもなにもなかったかのようにTシャツを元に戻し、改めて美南に向けて「ありがとうございました」と頭を下げる。
そして、
「さて、次は?」
あっけらかんとした笑顔で、遼太郎は周囲に声をかけた。
「わたし、行ってみます!」
未央が宏基たちにそう宣言すると、さっと手を挙げる。
だが、ほぼ同時くらいのタイミングで遼太郎の近くの席に座っていた四年生の長瀬花が「はい!」と澄んだ声で挙手した。
必然的に遼太郎と最初に目が合う。
「じゃあ、花ちゃん」
その指名に、サークル内がどよめいた。
生まれ持った容姿を生かし、芸能活動を行っている長瀬花。その可憐なルックスと物怖じしない言動が人気を集め、最近やたらとテレビで見かける有名人だ。大学入学当時からサークルには所属していたが、芸能活動が忙しくなってからは、なかなか稽古にも顔を出せず、この日は久しぶりの参加となっていた。
花は親友でもある同級生の男鹿乃々香と歓談しながら遼太郎の死闘を楽しんでいたが、次第に武道を修める者として黙っていられなくなったらしい。指名を受けて嬉しそうに立ち上がった。
テレビで見かけるときに「花ちゃん」が着ているひらひらのついた華やかな衣装とは異なり、ジーンズにTシャツだけのラフな服装に黒縁のメガネまでかけているが、その顔の小ささ、いまにも折れそうな繊細な体つきは、この雑多な居酒屋の空気の中でも一段と目を引いた。
野生味あふれる顔立ちと頑強な肉体を誇る遼太郎の前に立つと、大人と子ども、もしくは狼とうさぎのようでもあった。
その光景を眺めながら、指名を逃した未央は少し不機嫌そうに「あーあ、やっぱ花先輩なんだよなぁ〜」と呟いた。
そんな不満を隠そうともしない同級生の態度に三宅侑輔が笑い出す。
「お前、ほんと顔に出すぎ!」
「うるさい!」
未央は、ケラケラと笑うお調子者の同級生をひと睨みすると、
「だって、遼太郎先輩を倒す機会なんてなかなかないじゃん?」
と言葉を続けた。
「だったら、花ちゃんの次に行けばいいんじゃね? 花ちゃんの体格じゃ遼太郎さんはムリでしょ?」
ビールの連続摂取により口も滑らかになった侑輔が、さも当然といった様子で語る。
未央は少し思案げな顔をすると、一学年上の先輩である宏基に尋ねてきた。
「宏基先輩、……花先輩って何やってるんですか?」
アルコールに酔っていた宏基は、不意を突かれて少し動揺する。
「——え? あ、確か、杖道だったと思うけど……」
鼓動を抑えようと平静を装いつつ答えたが、すぐ隣から訂正が入った。
「最近は、システマ」
緊張を孕んだ硬めの声だった。




