第67話 黒き汚泥と火炎魔術
「ミア、やめて!」
子どもたちがミアの身体に縋りつきながら、痛切な叫びをあげる。その声が届いたのか、うつろな表情で天を仰いでいたミアはすぐさま正気を取り戻し、なにがあったのかと周囲を見渡すと、大きく歪んだ空間に言葉を失った。
その刹那、空間の歪みは急激に収束していく。すぐに空間は、なにもなかったかのように、いつもの光景を取り戻した。
汚泥だけは、取り残されたように触手を震わせていたが、じわじわと地面を這い、槍を構えた傭兵たちに襲いかかる。
「な、なんだ⁉︎」
想像もしない事態に戸惑いつつも傭兵たちはすばやく槍で突き、あるいは穂先で薙ぎ払う。しかし手応えはなく、それどころか汚泥は複数に分裂し、とどまることなく傭兵たちへと向かっていく。
リーダー格らしき傭兵が舌打ちをする。
傭兵たちはあきらめることなく、むしろ汚泥へと駆け寄ると、気味の悪い見た目に怯えることなく、ブーツで蹴り飛ばそうとした。
鋭利な槍の穂先は通じなかったが、硬い革で作られたブーツは、汚泥の本体を引き裂くこともなく、そのまま遠くへと弾き飛ばすことに成功する。
「刃物はダメだ! 蹴り飛ばせ!」
傭兵たちは声をかけ合いつつ、這い寄る汚泥をなんとか寄せつけまいとある者は踏みつけ、ある者は蹴り飛ばした。
「うおっ!」
傭兵の蹴った汚泥が足元に飛んできたフィンは思わず声を上げてしまう。
「ちょ……なにやってんの⁉︎」
隣にいたダーシーがあわてて汚泥を蹴り飛ばし、ふたたび傭兵たちのもとへと返した。
それまで沈黙とともに冷めた目で傭兵たちを観察していたナタリアは、抑えた口調で孤児院の面々を含む仲間たちに声をかける。
「いまのうち逃げるぞ」
ナタリアは、片足を引きずるアカメの少女を抱きかかえて運ぶよう教え子のダーシーに指示し、いつも周囲をよく観察しているジーンにはその注意深さを買ってミアの護衛を命じた。
「さあ、行こう」
ジーンは、いつものお調子者の雰囲気は微塵も見せず、真剣な表情で修道女を促した。
「おい、あいつら逃げるぞ!」
不穏な気配に気づいたリーダー格の傭兵が、汚泥たちを退けながら大声で仲間たちに知らせる。
「逃すな!」
号令に従い、槍を構えた傭兵のひとりが駆け寄ってくる。
フィンは小剣を抜くとその前に立ちはだかった。
「早く逃げろ!」
怒鳴り散らすようなフィンの一喝に、孤児院の子どもたちは顔色を変えて逃げ出した。そのすぐ後ろを護衛役のジーンがあわてて追いかけていく。
アカメの子を抱きかかえていたダーシーは、一瞬迷ったものの、
「行け!」
というフィンが再び放った怒号に不満そうに舌打ちすると、ジーンたちの後を追って駆け出した。孤児院の敷地から出ていく直前に振り返ると、大声で叫んだ。
「ちゃんと、ついてきてね!」
幼馴染の言葉に対して、フィンは視線を対峙する傭兵から外さずに「わかった!」と大声で答えた。
「逃さねぇぞ!」
フィンを睨みつけながら、じりじりと距離を詰めてくる中年の傭兵が、威圧するようにどすの効いた声で話しかけてくる。フィンはなにも答えず、もう一本の小剣も抜き放った。
槍を構えた傭兵の姿から、地味な外見にはそぐわない腕の持ち主であることがわかった。
相手も同じようなことを考えているのか、二人は見合ったまま、しばらく動かない。
「おい、シスター?」
ふと聞こえてきたナタリアの声。
偉そうに仕切っていた当の本人が、まだ逃げずに残っていることに内心苛立ちながら、声がした方にちらりと視線を向ける。するとそこには、地面にしゃがみ込んだまま、放心するミアの姿があった。
「ミア‼︎」
フィンは怒鳴った。
そこに傭兵の槍が突き込まれる。フィンは小剣で弾きながら、ステップで位置を変える。
「よそ見するとは、なめられたもんだな」
傭兵は煤まみれの顔を歪ませ、ふんと鼻で笑った。
「いきなり攻撃してきて……どういうつもりだ?」
フィンは、視界の端にいるミアとナタリアの様子が気になりながらも、精一杯睨みつけながら問いただした。それほど、さきほどの一撃は、牽制と呼ぶには殺気に満ちたものであった。直撃すれば少なくともまともには歩けなかったであろう。
「俺たちは街の被害状況の調査にあたってんだ。上から不審者がいたら連行しろ、って言われててな」
「……不審者だと?」
怒りに顔を歪ませるフィンであったが、年長の傭兵は動じることなく再び鼻で笑った。
「ああ。……だって不審者だろ?」
傭兵は不敵な笑みとともにいぶかしむような視線を、地べたに座り込むミアへと向けた。
フィンは黙らざるをえなかった。
ナタリアは、座り込んだミアの腕を引いて立たせようとするが、脱力しきったミアの身体はびくともしない。汚泥を自分が生み出したという事実を受け止めきれず、呆然としているようであった。
「フィン、ダメだわ。この子動かないよ」
ため息とともにナタリアは呆れ顔で言う。
「あの修道女、何者だ?」
対峙する傭兵が尋ねる。
「さぁね」
フィンは忌々しげに顔をしかめた。
逃げ出さないミアにも、戦いの最中なのに饒舌に話しかけてくる中年傭兵にもフィンはいらだっていた。
その時、怖い顔で睨んでいた傭兵が、ふと驚いたような表情になる。
「あ、お前、足元——」
傭兵の言葉にフィンが自らの足元を見ると、いつのまにか這い寄ってきた黒い泥のようなものが、フィンの革のブーツに取りつこうとしている。
気づけば汚泥は、傭兵たちに少しずつ切り刻まれたであろう、大量に増殖し、いたるところで不快に表面を波打たせながら動きまわっていた。
フィンはあわててブーツで蹴り飛ばす。
その様子に中年の傭兵は笑いだす。
「お前、大丈夫か?」
「うるさいよ」
さきほどまで睨みあっていた相手に気遣われたことが腹立たしくて、フィンは憎まれ口を叩いた。
「この黒いやつ、死体を動かしている元凶なんじゃねぇか?」
傭兵も近寄ってきた汚泥を蹴りつけながら、フィンに疑問をぶつける。
「そんなの知らないよ」
フィンは、にべもなく言った。
乱れた呼吸を落ちつかせながら、孤児院の庭だった場所を見渡す。
赤錆の大鴉団の傭兵たちは中央あたりに集まり、その周囲を取り囲むように無数の黒い汚玉が集まっていた。傭兵たちは次から次へと押し寄せる汚泥の塊を連携しながら退けていく。だが、いかんせん数が多すぎた。
打撃はほとんど意味がない。刃物は逆効果。
犠牲者が出てしまうのも時間の問題のように思えた。
この不吉にうごめく黒い泥の塊のようなものがなにものなのかはわからなかったが、生理的な嫌悪感を抱かせる禍々しい外見から、接触すればろくなことにならないであろうことは、なんとなく想像がついた。
傭兵を包囲する汚泥の一部が、フィンたちに襲いかかってきたようだ。
ナタリアとミアは孤児院の玄関周辺にいる。不思議なことにその周囲には汚泥は集まっていなかった。
「やべえな」
フィンと対峙していたはずの傭兵が大きく顔を歪める。いつのまにか増えていた汚泥の数にようやく気づいたらしい。仲間を助け出そうとするが、それに気づいたリーダー格の傭兵に鋭く制された。
「来るな! お前は火を見つけてこい! 火なら効くはずだ!」
リーダー格の傭兵は、これまでの黒躯との戦いの経験から、そう判断した。
指示を受けた中年の傭兵も頷く。
火事によって焼かれた建物の残骸に炎が残っていないかと周囲を見渡したものの、孤児院の周囲は、火の手が去って久しいのか、期待どおりのものは見当たらなかった。
「おい、兄ちゃん。火種はないか?」
「……火種」
切羽詰まった表情の傭兵に尋ねられ、フィンは必死に記憶を探った。
そして、いつもパイプをくゆらすナタリアの姿を思い出す。
「ナタリアさん!」
唐突に大声で呼びかけられ、ナタリアはびくりと体を震わせた。
「うおっ、びっくりした。なんだよ?」
「ナタリアさん、火種持ってないですか?」
「火?」
けげんそうなナタリアに対し、フィンと傭兵は真剣な表情でうなずいた。
ナタリアは、周囲の状況を見て、事情を察したらしい。
「なるほどね。わかった。下がってて」
ナタリアは左手の指先を前方に向けると、複雑な音節の言葉を唱え始めた。
——呪文?!
フィンが気づいたときにはすでに詠唱を完了していたらしく、いきなりの閃光が視界を埋め尽くし、炎と熱をまき散らしながら大地が弾けた。その衝撃で庭を取り囲む石壁は崩壊し、大量の汚泥が埋め尽くしていた場所は深々とえぐられ、おぞましい泥の塊の群れは跡形もなく吹き飛んでいる。
焼け焦げた地表から立ち上る水蒸気を見つめながら、フィンと中年の傭兵は言葉を失った。
汚泥に取り囲まれていたはずの傭兵たちは、至近距離で起こった爆発によって庭のいたるところに吹き飛ばされ転倒していた。彼らはなにが起こったのかも理解できないまま、とりあえず起きあがろうともがいている。
「残りも片づける! 早くどいて!」
ナタリアの声に、傭兵たちはあわてて立ち上がると、汚泥のいないスペースに逃げ出した。
ふたたびナタリアの素早い詠唱とともに轟音が耳を裂く。地面ごと焼き払われた汚泥は、すべて消え失せ、あとには庭の形跡をとどめない焼け焦げた窪地が残されるだけであった。
ナタリアは勝ち誇ったように胸を張った。
「どーよ?」
フィンは素直な感想をつぶやく。
「本当に魔法、使えたんだ……」
思わずナタリアは、体勢を崩した。
「……あのねぇ。これでもれっきとした魔術学院の講師なんですけど?」
そこに泥だらけになった傭兵たちが槍や剣を油断なく構えながら近づいてきた。
「とりあえず助けてもらったことには礼を言うが、いろいろ聞きたいことがある。赤錆の大鴉団の本部まで来てもらいたい」
リーダー格の傭兵は、疲弊し切った表情ながら、精一杯威圧するように言う。
「特に、そこの娘な」
その傭兵の言葉に、激しい爆発の衝撃で正気を取り戻したミアはびくりと身体を震わせる。
ナタリアは不敵に笑った。
「おい、フィン。労せずとも赤錆の大鴉団にご招待いただけたぞ。これでルーファスに会えるな」
その言葉に傭兵たちはけげんそうに視線を交わし合う。
フィンは深いため息を漏らした。
ミアの扱いは心配だが、いまはナタリアの言うとおり、傭兵たちについて行ったほうが良さそうだ。
傭兵の求めに応じ、佩いていた二本の小剣を預けると、フィンとナタリア、そしてミアの三人は傭兵たちに囲まれながら移動を開始する。油断なく周囲を警戒しながら急ぐ傭兵たちの姿は、連行するというよりも、フィンたちの護衛のようであった。
「黒躯だが、どうやら火に弱いらしくてな。もしも襲われたら、また魔法を使ってもらえると助かる」
「黒躯?」
「ああ、徘徊してる黒い死者のことだ。市の参事会が魔術ギルドの助言で、そう呼んでいるらしい」
話しかけてきたリーダー格の傭兵からそれを聞いたナタリアは鼻で笑った。
「センスのない呼称だと思ったら、やっぱ魔術ギルドの連中が絡んでんのか」
なぜか上機嫌なナタリアは嬉しそうに魔術ギルドの幹部たちを罵倒しはじめる。その隣にいるミアは、相変わらず憔悴しきった様子で、うつむきながらとぼとぼと歩いている。
その純白の頭巾から露出した白い額をフィンは凝視した。
さきほど、その中央でまばゆい光を放った輝きに心当たりがあった。
リィン神のみならず、フアナやアーシアといった神々の眷属にも共通して現れる表象だ。
ミアも、もしかしたらなにかしらの神々に縁故があるのかもしれない。
それは彼女の信仰からフェリス神であるようにも思えたが、一方であのような悪意に満ちた触手の集合体や黒い死体を、仮にも博愛を司る神が生み出すとは考えにくかった。
本人も知らぬうちに、とんでもない悪神に魅入られてしまっているのではないか。
フィンは、前世から見守りつづけているミアの横顔を見つめながら、ずっと考えを巡らせていた。




